自分で気付く
できることをする2
やったつもりにならない
大人になると、仕事などが重なって稽古の時間に間に合わなかったりすることがよくあります。けれど、そんな時でも自主トレで「できることをする」のが大切です。
私が休んでしまった道場生に薦めている自主トレは「拳立て」です。
それも一日たった10回。
けれど、これをきっちり休まず続けることのできる人はほとんどいないようです。
力に自信のある人は、10回だと物足りなくてついつい何十回とやってしまうので、次にやる時には時間が取れないなどの理由をつけて、結局やらなくなってしまうのです。
筋力に余裕があるなら、朝10回、寝る前10回から始めてみたらどうでしょうか。
だいたい、拳立てが何十回にもなってくると数をこなすのに気を取られ、キチンと行なえていないように思います。
もちろんレベルが高くなってくれば「できること」のレベルも上がってきますが、初心者レベルであれば、まずは10回しっかりと「できることをする」のが大切です。
試合に向けての稽古でも同じです。
レベルが高くなった場合には、もちろん「できるレベル」が高くなっているのですから、厳しい内容にはなります。
自分では「もう無理!」と思える稽古であっても、指導者からすれば、、まだまだ「できる」レベルなのはよくあることです。
そこを見極めてやらせるのが指導者側に必要なことで、本人にできる以上の事を課したりすればオーバートレーニングとなり、逆に不十分だと上達が遅れてしまいます。
自分にできる事を正しく知り、それをキチンと行なっていくことが、初心者にとっても上級者にとっても共に重要なことなのです。
上達しない子は「できること」をきちんとしません。自分のやりやすいように形を変えて行い、やったつもりになって満足しています。
やろうとしてできないのではなく、やれる事をやらないのです。
やれるけれどめんどくさい。やれるけれどしんどいので手を抜きます。
けれど形だけは「やっている」ので、自分はやっているのだと勘違いして、いつまでたっても上達しないのです。
例えば、ミットを蹴る時に上段を蹴りなさいと指示していても、途中からだんだん蹴る位置が下がっていってチョコチョコ小さく蹴っていたり、移動稽古の前屈立ちや騎馬立ちでだんだん腰が高くなっていったり・・・
できないことではなく、やるのがしんどいからやっていないのです。
前屈立ちの移動で突きをする時に、後ろ足の伸ばしで体を送って体重移動を行ない、前足の曲げでそれを受け止めて腰を極め、その力を腕に伝えて突く。
このように深く落とした足腰の動きによって体に技を覚えさせ、それを組手の立ちの中で生かすようにしていく。
これが基本から組手に繋がる空手の稽古です。
子供の間は特にそんな理屈を知らなくても、言われたとおりにやっていたらちゃんと上達していくので、とにかく言われた通りにやっていたらいいんです。
そして、大人の場合にも同じことが言えます。そこまで深く考えていなくても、例えば、深く落とした立ちで移動をするのはけっこう足腰の鍛錬にもなります。それなのにそれを真剣にやらずに形だけなぞって移動稽古を終え、その後にスクワットをやって「俺は足腰を鍛えているぞ!」と自己満足している者もいます。
私から見たら、時間を無駄に使っているようにしか見えませんが、本人はそれで満足しているんですよね。
子供には厳しく指導しますが、大人の場合は自主性が第一で自覚も必要だし、自己満足の稽古でもやらないよりはマシなんであまりきつくは言いません。けれど「空手の稽古」の方を重視してやってもらいたいものです。
これも、「できる事をする」ということができていない例ですね。
子供には「できること」をやらせる。大人は「できること」は自分で意識して行なうようにする。どちらも同じ「空手の稽古」です。
上に書いたように「できることをする」のですから、まだレベルが低い間は当然ながらできることがあまりありません。なのでレベルの低い間はそれほどしんどくないんですよね。
レベルが上がってやれることが増えてくると、その分稽古がたいへんになってきます。上達するほど稽古がハードになるわけです。
基本の時も、黒帯にはレベルの高い基本が求められます。準備運動程度にしていたのでは、自分の稽古になりません。
だからこそ、スランプになった時に基本に戻って稽古すれば、更に上達できるきっかけを基本の中に見つけることができるのです。
組手の時にも同じことが言えます。
上級者がビギナーや子供の相手をする時に、「どんどん打ってこーい!」と自分が動かずに打たせるだけになっていないでしょうか。
もちろんそういう風に初心者に攻めることを覚えさせるために受けてやることはあります。けれど、初心者の技など当たっても痛くないと舐めてかかって、手を抜いて自分が動かず、楽をしていないでしょうか。
かと言って、上級者と初心者が普通にフリーで組手をしたら黒帯が勝って当たり前です。レベルの違う者同士だと下の者の稽古にはなっても、上の者には簡単にできてしまって自分の稽古にならないことがあります。
ですから、鳳雛会の組手の稽古は約束組手が中心になっています。初級者でもできるコンビネーションに限定することによって、上級者とビギナーが一緒に稽古できるようになるのです。技を限定することで初心者でも頑張れば対応できる範囲となり、上級者には精度の高い技術が求められるのです。
当会ではレベルに合わせて稽古しているので、一番ハードに稽古しているのは、まぁK師範でしょうね。最近は大会にもあまり出なくなってきたので試合に向けて体力的に追い込む稽古は減ってきましたが、その分、技術的に細かいところへ指導がいきます。体力的な稽古は思いっきりやっていればいいんですが、技術的に高い部分を求めるようになるとそう簡単にはできなくなってきます。
上達すればするほど求められるレベルが高くなっていくのですから、空手の修行は中々大変です。だからこそ一生続けていくだけのやりがいがあるのです。
K師範が、「もっと他の道場生にも厳しく言った方がいいんじゃないですか!」と、よく私に意見してくれるのですが、まだ厳しく言えるレベルに達していない者にそれを求めてしまうと、空手を続けること自体がつらくなってしまいますから、あまり強くは言いません。
K師範は、自分がいろいろ厳しく言われるので少し不満もあるようですが、「そのレベルにいるからこそ」なんですけどね。
また、よく他の道場から出稽古に来てくれるのですが、わざわざ他流の稽古に参加しようという人ですからけっこうレベルの高い人が来てくれます。
指導者レベルで交流に来てくれている方には、こちらの道場生を預けて指導をお願いするのですが、現役で試合に出ているような若い選手が来た時には、そこそこできる道場生と組んでもらってハードにミットを蹴ってもらいます。
だって、せっかく出稽古に来てくれているのにお茶を濁したような軽い稽古をしていたら申し訳ないじゃないですか。
で、他の道場の先生からは「鳳雛会さんは稽古がハードだ」などと言われたりもするんですが、そんなレベルの人が来てるんですから、当然稽古もハードになりますよね。
これも「できることをやっている」に過ぎないんです。
レベルが高い人も、まだビギナーの人も、
「できることをする」
これが一番重要じゃないでしょうか。