大会の役割


勝てばそれでいい?
 試合には必ず勝ち負けがついてきます。そして優勝できるのはたった一人だけです。
 大会はほとんどがトーナメントですから、単純に考えると一回戦で出場した選手の半分が負けてしまうのです。400人の参加する大会なら一回戦が終わっただけで既に200人もの人が負けているのです。だから親の気持ちとして「一回くらいは勝って欲しい」と思うのは、心情的にはわかりますが、選手にとって実はすごく高いハードルなのです。

 それに優勝するヤツはいきなり決勝戦で出てくるわけではなく、当然トーナメントを勝ち上がってくるのですから、そいつと一回戦で当たった選手もいるわけです。
 ということは、反対側のブロックにいればもしかしたら決勝戦まで進み、準優勝していた可能性もあるわけです。

 また「三竦み(さんすくみ)」のような関係もあります。「三竦み」とは、「蛞蝓(なめくじ)は蛙(かえる)を恐れ、蛙は蛇(へび)を恐れ、蛇は蛞蝓を恐れる。」というもので、わかりやすく言うと、じゃんけんの「グー、チョキ、パー」みたいなものです。
 自分の得意とする相手や苦手とする相手とトーナメントのどのタイミングで当たるかによって勝敗が変わってきます。組手が噛み合うかどうかで力を発揮できるかどうかが変わってくるわけです。
 ですから緒戦で負けてしまったからといって、その選手が弱かったからだとは必ずしも言えません。単に実力だけではなく、クジ運ということも大きく関係してくるわけです。

 ところが最近では大会至上主義の傾向が強くなり、試合で勝つことばかりが重視されてきているように思います。たとえば一回戦で強い選手と当たると「損をした」という感覚を持つ人がいます。しかし、一回戦から強い相手と当たるというのは、考えようによってはある意味ラッキーだったとも言えるのです。

 同レベルの相手とやって紙一重の差の判定で負けてしまうより、レベルの高い相手と腕を交える方がどれほど勉強になるかわかりません。

 試合に出るのも修行の一つであり、大会に出るのは自分の勉強だということを理解していれば、たとえ負けたにしてもレベルの高い相手と試合できる方が、ずっと有意義なことです。それでこそお金を出して大会に出た価値があるというものです。

 もちろん負けるより勝った方がいいのに決まっています。けれども目先の勝ち負けにこだわりすぎると空手を学ぶ本当の目的から逸れていってしまうことになりかねません。
 試合自体、何のために行なうのかということを、もう一度考えてみて欲しいと思います。
 普段の稽古の成果を試し合うから「試合」と言うのです。勝つことだけが目的では決してありません。
 普段通りの力を発揮できるかという精神面の成長を試す場であり、道場で稽古して来た技が身に付いているかどうかを試す場なのです。試合でダメな部分が見つかれば、それをまた道場に持ち帰って稽古に励む糧とすればよいのです。

とはいえ、試合に勝つというのはうれしいものです。
 子供が勝つと親はうれしいし、もちろん指導者もうれしいです。

 ところがこれが負けた場合、腹立ち紛れに子供を叱り付けているのが見受けられ、時には手を出している場合さえもあります。
 試合内容を反省させ、注意を与えているのならば構わないのですが、どうもそうではないようです。
 これは試合で勝つことを目的にしてしまっているから、負けた選手はダメで、それまでの稽古がすべて無駄になってしまったような感覚に陥ってしまうからです。

 親が試合結果に引っ張られてしまうのはまだ理解できますが、指導者までもが試合結果のみにこだわっている場合があります。指導者がその親をたしなめることをしなくては選手である子供がかわいそうです。

 試合の場に立つことだけでも勇気の要ることで、大会は出ること自体が勉強です。 怖さを乗り越えてコートに立ち、試合をするという経験を積んだだけで得るものは有り、その大会に参加した価値はあるのです。
 試合の内容を反省するというのはその次の段階のことになりますから、勝った負けたという結果だけに一喜一憂することなく、負けたということだけで選手を責めることが無いようにしたいものです。

 以上の話は少年部を中心にしていますが、大人が試合に出ることについてもまったく同じことが言えます。ただ試合内容の反省については少し厳しくなるとは思います。


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