力無き正義は無能なり


蟷螂の斧


力の裏付け

 蟷螂の斧(とうろうのおの)とは、無力な者が自分よりはるかに強いものへ無謀にも向かっていく事を、カマキリが己の力量もわからずに牛車に向かって自らの鎌を振り上げていく様子に喩えたものです。

 これを良い方に解釈する人もいるようで、たとえ相手の力が自分より強くてもやる時には敢然と立ち向かう姿を讃えていると言う場合もあるようですが、一般的には身の程知らずの蛮勇を指すことが多いようです。

 この新聞記事がまさにそれでしょう。(毎日新聞)
 まさか、本当に車で轢くはずがないと高を括って車の前に立ちはだかったようですが、カマキリよろしく轢き殺されてしまいました。

 舐めて掛かってはいけません。相手が自分と同じ常識を持ち合わせていると考えてはいけないのです。

 この事件では、当然加害者が悪いのですが、被害者の方もまさか本当に轢き殺されるとは思っていなかったのでしょう。
 恐らく、「轢けるものなら轢いてみろ!」といった態度で車の前に立ちはだかったのでしょうが、犯人はアッサリとこの人を轢き殺してしまいました。
 被害者の頭にある常識では、そう簡単に車で人を轢き殺すなどできるハズがないと思っていたのでしょうが、今はそんな「常識」の通用しない人が増えています。「常識」についてはまた別のところで意見を述べたいと思っていますが、ここでは、この蛮勇について考えてみたいと思います。

 新聞記事からしかこの事件のあらましを知る事はできないのですが、歩行者に対してクラクションを鳴らしている犯人側に間違いなく非があります。けれど、その後の口論、暴力行為に対して、被害者がそのまま行かす事はできないと、車の発進を止める為に前に立ちはだかったようですが、こういう輩に対しては明らかに無茶な行動だったと言わざるを得ません。こういう奴らに対して言葉で改心を求めるのは、そもそも無理な話で、それを謝らせようとか、やめさせようとするためには、警察などの協力を得るか、裁判で法的に裁いてもらうしかありません。
 つまり、違法行為が行なわれている現場では、我慢するしか方法は無いのです。

 「話せばわかる」というのは、文字通り、話してそれを理解できる相手にだけ可能なことであって、相手が自分と同じくらい物事を理解できると思い込むことが間違いなんです。

 自分に対して、または他人に対しても、「とても許す事ができない」行為があった時に、その現場でそれをやめさせるには「力」が必要です。
 その力を持たないのに、自分の力を過信して行動する事は大ケガをすることに、いや、この場合のように、正に命に関わることになるのです。

 正義には裏付けとなる力が絶対に必要で、その力が無いなら不正に対しても甘んじてそれを受け入れるしかないのです。

 力の裏付けがあろうとなかろうと、「正しい事は正しい」というのは、理屈はその通りですが、そんな正義は簡単に凌虐されてしまうのです。

 力の裏付けが無い「蟷螂の斧」は簡単に踏み潰されてしまいます。正義を主張したいのなら、力を付けなくてはなりません。まずは自分を守る為に、そして、正しい事を主張するためにもしっかりと力を付けてください。


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