適性と必要性


向き、不向き


向いてなくてもやるべきか?

 人には物事に対しての、向き、不向きというものがあります。

 こんなことを言うと
 「差別的だ」とか「子供には無限の可能性があるはずだ。それを初めから否定するようなことを言うべきではない。」
 などと言う教育者がいたりします。

 理念的にはわかりますが、それはあくまで理想的な話であって、実際にはできない事が厳然としてあります。

 全ての子供にすべての可能性があるわけではなく、人それぞれに向いている事と向いていない事があるものです。

 向いていないことはいくら一生懸命やってもある程度までしか上達しませんし、逆に向いていることは本人がそこそこやっているだけでもある程度以上までできるようになります。
 そして、それは好き嫌いを別にしてもです。いくら好きであっても向いていないことは中々うまくなりませんが、嫌いであってもやらせると難なくこなしてしまう事があります。

運動だけでなく、勉強でもそうです。

 それに運動が得意な人でも得意な種目と苦手な種目がありますし、勉強でも得意な科目と苦手な科目があります。
 当然ですよね。

 こんな当たり前のことを理屈としてはわかっていても、いざ自分のこと(自分の子供の事)になるとそれが見えなくなってしまう人がいます。

 できないのは「向いていないからだ」とか、逆に「これぐらいは誰にだってできることだ」という考えに陥る人が多いのです。

 「これぐらいは誰にだってできることだ」と考える人は、そのできるレベルの線引きが、「自分ができるか、できないか」を基準にしているので、できない人を見ると、サボッているからだとか手を抜いているからだ、と考えてしまいます。

 自分にとって当たり前にできることが、他の人にとってはすごく難しい場合もあるということに思いが及ばないのです。

 そういう考えに捉われると人は傲慢になってしまいます。
 自分でさえできるのだから、他の人もできて当然だ。できないのはやらないからだと、相手を責めてしまいます。

 しかし、自分には考えられないほど本当に「できない」人はいるものです。赤ん坊から成長していく過程で、何かが欠落してしまったとしか考えられないほど、どんくさい人もいます。

 以前に、立ち幅跳びで10cmしか前に跳べないという人をTV番組で扱っていたことがありました。別に足に障害があるわけではなく、片足を踏み出すだけで50cmは前に歩ける人が、両足一緒の立ち幅跳びでは10cmしか前へ出れないのです。本人は真剣なのですが、両足一緒に踏み切るということができなかったのです。

 なにもサボってやらないのではなく、やろうとしてもできないのです。
 これはもちろん肉体的能力の限界ではなく、精神的に何かのブロックが掛かっているせいなのです。
 ですから、その心の上での障害を取り除いてやらないとできるようにはなりません。番組ではいくつものトレーニングを経てその心理的障害を取り除き、普通にジャンプすることができるようになっていました。

 ただ、すべてが精神的な暗示によるものではなく、単に気持ちの上でできないとあきらめている場合が多いものです。

 これは、それこそ考え方次第のことですから、本人の気持ち一つで何とかすることができる筈です。すべての物事は自分の意志で行なっていることですから、無意識にせよ、自分からやろうという気にならなければ何もできるわけがありません。

 これを「向き、不向き」の問題にしてしまってはいけません。まずはそのことに積極的に取り組む姿勢が求められます。

 試合でなかなか勝てなかったりすると、「自分は空手に向いてないんじゃないか」と思える時があります。それが自分の子供だったりすると、「やっぱり運動能力が無いからダメなんだ」とアキラメてしまったりするのです。

 そして、「向いていないので空手を辞めます。」と言ってくるのです。
残念で仕方ありません。

 もちろん技術的、肉体的に上達することは目標の一つではありますが、それが空手をする上での目的のすべてではありません。空手を武道として行なうということは、単に技術だけを追い求めるのではなく、人格の形成に役立ち、豊かな人生を送る手助けとなるものでなくてはなりません。

 武道に於いて強さを追い求めることは必要ですし、戦いにおいて弱いということは、極端な話、それは即、死に繋がるものです。けれども世の中から武道に期待されているものは肉体的強さだけではありません。
 正しいものを正しいと言える心の強さや、へこたれずに努力を続ける我慢強さなどの育成を求められているのではないでしょうか。

 空手において、向き、不向きというのは単なる逃げの考え方に過ぎません。

 例えば、人と殴り合いをするのは好きではないという人もいると思います。そんな人は確かに空手という種目においては、「向いていない」と言えるかもしれません。しかし、殴り合いはイヤだからという理由で、それを避けていてよいものでしょうか。

 現代社会では暴力行為は法律で規制されているので、トラブルになった時は警察が何とかしてくれると思っている人も多いようです。けれど、暴力の現場で誰かに助けてもらう事を期待していてはいけません。自分の身は自分で守らなければならないのです。

 空手では稽古で実際に人を殴り、また殴られることで、人に与える威力と、受けた時の痛みを知ることができます。それを知るからこそ自らの暴力を抑え、他人に対する思いやりを持つことができるようになるのです。

 今の世の中において、自分の身を守る技術は、「自分に向いていないからしない」というレベルのものではなくて、身に付けておかなければならない能力の一つではないでしょうか。
 自分のみならず大切な人をも守る技術として、そして他人を思いやる心を養うための方法としても、現代社会において空手をやること不可欠なものではないか、とさえ私は思っています。


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