煽り、煽られ、自己責任
煽り運転
正しければ相手に何を言ってもいいのか?
東名高速での煽り運転
当時、ニュースでも大々的に取り上げられ、この事件を契機として法改正が行われ、裁判の様子なども報じられましたから御存知の方も多いかもしれません。先日やっと最高裁での判決が確定しましたが、結審までに丸5年も掛かった事件です。
事件のあらましは次のようなものです。
高速道路のサービスエリア出口近くの、本来、車を停めてはいけない場所に停止していた加害者の車に注意した被害者の車を高速道路上で執拗に煽り、前に回って追い越し車線で停止させ、つかみ合いになったところへ後続のトラックが追突。父、母が死亡して同乗していた子供も怪我をしたという事件です。
加害者の男はそれまでにも何度も煽り運転で交通トラブルを繰り返していたそうで、同情する余地はなく、厳刑を望む被害者の子供たちの要望ももっともなことでしょう。
そこに関しては私も全く同意見であり、世間の大勢の人たちが被害者とその家族に同情的な声を挙げています。
ニュースでこの事件を初めて聞いた時には「注意されて逆ギレして、注意した方が死亡するなんて何て酷い事件なんだ。」と思いました。
勿論、大筋ではそうに違いないんですが、裁判での様子が詳しく報道される中で、マスコミがあまり大きく扱わない(意図的に表現を抑えている?)内容が、加害者の証言として出ていました。
それは事件の発端となった駐車の仕方をめぐっての「注意」の中身です。
証言から明らかになった内容では、停めていた車を動かしたときに、被害者となった運転者から「邪魔だ、ボケッ!」と言われ、逆上してしまったというのです。「邪魔だ」だけならそれほど怒らなかったかもしれないが、「ボケッ!」と言われたことでカッとして追いかけてしまったというのです。
大前提として、停めてはいけない所に車を停めていた加害者が悪いのであり、「注意」することに非はありません。
けれど、です。
だからといって通れるように車を移動させた相手を「ボケ」呼ばわりしていいものでしょうか。
おそらく亡くなられた被害者の方は「自分の方が正しいから強く言ってもかまわない」。そういう意識があったのでしょう。
しかし、たとえ相手のやっていることが「ボケ」なことであったとしても、それを声高に言うことで相手を怒らせるということに思いが至らなかったのでしょうか。
もし、それを言うのであれば、トラブルになった時の責任は自分で負う(つまり、話をつける)覚悟はいるでしょう。そして、その気を持っていたからこそ高速道路の上で車を停め、加害者とのつかみ合いにもなったのでしょう。
けれど、この被害者は一人で車に乗っていたのではなく、家族連れであり、妻と子供を同乗させていたことを忘れていたのでしょうか。
「自分は間違っていないのに相手が逆ギレした、だから売られたケンカは買ってやる。」そんな気持ちだったのではないでしょうか。
この場合、最優先すべきは妻子の安全であり、目の前で相手が車を停めたとしたら、少しバックするなりして路側帯に車を寄せるなどの処置が必要だったのではないでしょうか。
今回は夫婦が死亡し、子供が残されてしまったことで世間の同情の目が集まっていますが、これが逆に子供が犠牲になり自分が生き残ったとしたら、この父親のやったことは正しかったと言えるのでしょうか。だって、高速道路上の追い越し車線で車を停めているのですよ。
追突してしまったトラックからすれば、それこそいい迷惑です。サービスエリアの出口に停めているなんて追い越し車線で停めてるのと比べれはカワイイものでしょう。
自分の怒りの大きさと家族の安全を比較して、どちらが重要なのかを判断する必要があったと思います。
何より、その場において自分が正しい立場にあったとしても、だからといって相手を侮蔑していいものではありません。
ましてや守らなければならない家族がいるのならば、その安全を第一に考えて自分の正しさをいったん横へ置いておく必要があったはずです。
ちなみにアメリカでは煽り運転はほとんどないそうです。
交通渋滞は日本とは比べ物にならないくらいひどくて、何時間も掛かる渋滞に巻き込まれてしまうことは日常茶飯事。それでもイライラしても前の車をあおったりしないのは、何よりトラブルとなって前の車から降りてきた相手が銃を持っていることが考えられるからだそうです。混んでどうしようもないことにイライラして前の車を煽ったことで銃で撃たれる危険を冒すなんていうのは「割りに合わない」ということでしょう。
小さなことで怒りを他人に向けるのは「割に合わない」と考えられるようになりたいものです。(自戒を込めて)