教えてもらうだけじゃなく


指導する事で上達


道場という場でみんながうまくなる

 鳳雛会の稽古では、全体で整列しての基本稽古や移動稽古という昔ながらのやり方ももちろん行ないますが、稽古の後半には数名でグループに分かれ、上級者が後輩に指導する形を取る事がほとんどです。

 早く上達したい者ほど、教える側に回るより教えてもらう側で稽古したい気持ちになるようですが、実は指導することによって上達できるようになることが多かったりするのです。

 上達するためにはどのような方法が有効かというのは、教育学の観点からいろいろなアプローチがなされています。その中でも、自分が習った事を人に教えるというのは理解が深まり、とても効果が高いとされています。

 空手の技術修得においても、師範が指導するのが正確なのは間違いないのですが、少しくらい不十分な教え方であったとしても、道場生同士が互いに教えあうことで指導を受ける側だけでなく、教える側も上達していく事ができるのです。

 自分が習うのは良いが、人に教えるのは苦手だという人がけっこういます。大手の道場に通っていたりする人の中には、高い会費を払って習っているのに、なぜ人に教えなければならないんだ、と考える人もいるようです。
 商業的な考え方で言えば当然の意見かもしれませんが、武道的には全く的外れなものでしょう。

 武道を修行する場が道場であり、道を目指して稽古に励む者同士で先輩が後輩を指導するのは当然のことです。

 師範や先輩に指導されて上達することができたのですから、その分、今度は後輩を指導してお返ししていくのです。そうやって上から下へ指導が伝わっていく事で、後輩は先輩を敬う気持ちが沸くのですし、先輩は後輩が上達していく事で、更に上を目指して頑張らなければならなくなるのです。その意味では、後輩に尻を叩かれているようなものです。
 後輩の存在があるからこそ、自分はもっと頑張らねばならないという気持ちになるのですから、後輩の存在が稽古を怠けたい気持ちを抑えてくれる非常に重要な役割を担ってくれているのです。

 そして、武道的観点からだけでなく、上に述べたように技術的な上達の為にも後輩を指導するという事は非常に効果的です。

 運動神経がいい人は、指導された時に先輩の動き見て、「こんなカンジかなぁ?」と動いてたら何となくできてしまうものです。だから、どこをどうしたらこの動きになるのか、なぜその動きが必要なのか、などがキチンと理解できていなかったりするので、もっとうまくなろうとした時どこをどう修正したらよいのかがわからなくなってくるのです。

 ところが、技や動きを下の者に丁寧に指導していく中で、「あれ、ここはどうするんだっけ?」自分が理解できていないところに気付く事ができます。
 「他人の振り見て我が振り直せ」という諺は、指導している時にも有効な格言です。後輩のできていない動きを見て、自分がそれをできているのか、という事に気付かされる事が多いのです。

 また、理解があやふやだと、キチンと説明ができません。言葉で説明できないという事は、まだ本当にわかっていないという事です。指導するためには「何となくできていた」ことを言葉に変換する事が必要であり、今まで意識していなかった部分に目が向いて、そこを意識できるようになるから上達できるのです。

 つまり、指導する事で注目すべき細かい点が目に付くようになり、それを自らの稽古にフィードバックさせることができるのです。

 自分ひとりで稽古して、汗だくになってサンドバックを蹴って上達するのもいいですが、自己満足に陥って、それ以上、上達できなくなっているのかもしれません。

 そんな時に教えてもらう先輩がいて、指導するべき後輩がいるからこそ、「道場」自らを高めていける場となるのです。

 師範とマンツーマンで指導してもらうのも中身の濃い稽古ができるとは思いますが、そこでは自主性が失われている場合があります。

 稽古の質そのものは高くても、それを自らのものにできるかどうかには、自発性が重要になってきます。受身な稽古では、どんなにハードにやって体は疲れても、身に着く稽古になっていないかもしれないのです。

 「なるほど、この動きはこうするためのものか!」と、自ら発見する意識がなければ、自分の中にその動きが入ってこないものです。

 それを見つける為には、後輩を指導するのが一番です。
 それは基本や型の稽古のみならず、組手においても同じです。いや、組手こそそういった意識を持つ必要があるのかもしれません。

 一般的に、組手で後輩や子供の相手をする時、「どんどん打って来い!」と攻撃させる場合がよくあります。
 もちろん、そういうふうに体で受けてやるのも後輩の相手をしてやる一つの方法ですが、それだけになると自分の上達には何の役にも立ちません。
 攻める側にしても人間サンドバックを叩いているようなもので、技の攻防の稽古にはならないのです。
 相手の技を引き出す為には、うまく受けてやらないといけません。また、こちらも攻撃してやらないと相手は受けの稽古ができません。

 自分の側に視点を向けると、自分が上達する為には来る技に対して常に対応しなければいけません。相手の技を受ける時に体を締めて受けるのか、体捌きで身を躱すのか、それともカウンターを合わせる動きをとるのか。攻める時には相手の動きを読み、どの技をどのように繋げば入るのか、などを考えながら動かなければいけません。
 たいして痛くないからとバンバン体で受け、力任せで後輩を攻めているだけでは自分の技術が上がらないのです。
 自分のパワーを下げてやることで後輩も同等に組手する事ができるし、反応と動きを鋭くすることで自分も上達できるのです。

 自分と同レベルの相手だと迂闊な大技は出せませんし、受けるのも必死になりますから余裕がありません。もちろん、そんな状態でハイレベルの組手をたくさんやっていけば確かに上達はしますが、普通は体がもちません。怪我も増えるし、新しい技は中々試せないので、使える技が増えていきません。素質のある者はそんな中でも自然と上達していくコツを掴んでいきますが、並の者は上達が滞ってしまいます。

 そして、そんなハードな組手ばかりしていると一緒に稽古できる相手が限られてきますから、組手できる相手が減ってきます。そんな条件でも上達していける者は素質のある限られた人達です。

 並みの運動能力しかない者が、ケガも少なく、体に無理を掛けずに上達していくには、レベルが下の者とやる時に、いかにそこへ自分を合わせるかです。
 技やパワーをコントロールした上で、相手とどれくらいの攻防ができるかが上達の分かれ目です。
 指導するという事は、自分の稽古であるということを忘れずに、常に自分の上達を意識して取り組んでほしいものです。


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