稽古をする上での心構え
道着を着ることについて
Tシャツでいいのか?
鳳雛会では支部相互で自由に稽古できますが、支部の運営は支部長に一任していて、稽古のやり方もそれぞれがやりやすい方法で取り組んでいます。けれども鳳雛会としての基本的な指導方針から外れてしまっては困ります。
先日、支部道場の一つを視察した時のことです。
小学生の大半がTシャツで稽古していました。
伝統派の道場に所属している人からすれば思いもよらないことかもしれませんが、フルコンタクト空手の道場によっては、夏季期間は道場オリジナルのTシャツを道着の代用として認めているところがあります。
親からすると洗濯の手間などから考えて、Tシャツの方が便利だと思う人もいるようですが、鳳雛会では稽古の時には道着を着用します。
そうは言っても試合の前日で洗い替えが無い場合や、雨が続いて洗濯後に乾いていないなど、それなりの理由がある場合にはTシャツなどでの稽古を認めています。
しかし、それはあくまでも緊急措置的なものであって、推奨しているわけではありません。
武道として稽古しているのですから、頭ごなしに「ダメなものはダメだ!」でもいいのかもしれませんが、どうしてダメなのか理由がわからないという人もいるかもしれません。そこで今回、少々くどい説明になるかもしれませんが、コラムとして取り上げることにしました。
道着はいわばユニフォームのようなものです。スポーツでは公式に試合に出る時には指定された形のユニフォーム着用がルールで決まっているのがほとんどです。たとえルールで決まっていなくても、その種目をやるときにはそれに適したスタイルというものがあります。
以前に私が大会会長をしていた大会で、子供がTシャツで試合に出てきたことがありました。その道場の師範に聞くと、夏場はそれでずっと稽古をしているので子供がそれでかまわないと思って、道着の上着を持ってきていないという事でした。
これは指導者側の問題です。キチンとした形を取って教えていなかったのですから。大会ですから本来は出場不可とするべきなのですが、その子供に責任はありません。私は非常に違和感を持ちながらも、仕方なく特例として試合出場を認めました。その道場の先生へ次回からはきちんとした空手着で出させてくださいと強く申し伝えておいたのは言うまでもありません。
なぜ、このようなことが起こるのか。それは空手を稽古する際に「武道」としての意識をどれだけ持っているかということと関係してきます。
武道としての意識を持って稽古していないから、「暑いから汗を吸って重くなる道着は着ない方が動きやすくていいや」となってしまうのです。
物事にはそれに対する心構えというものがあります。その物事に対する真剣さと言ってもいいでしょう。
他のスポーツでも公式戦ではルールで決められたユニフォームの着用が義務付けられていますが、練習試合ならばユニフォームを着用しなくていいのでしょうか。
サッカーのように敵味方が入り乱れて攻防を繰り広げる種目では、試合の進行自体がスムーズに行かなくなります。
だったら野球のように攻守がはっきりと切り替わる種目ならば問題になることはあまり無い様に思えます。
それならば構わないと思いますか?
決してそんなことはありません。
なぜなら、そこには、「真剣さ」が感じられないからです。
例えば、野球で練習試合を申し込んで対戦した時に、相手チームの何人かがジャージで試合に出てきたとしたら、あなたはどう思いますか?
試合相手として軽く見られていると感じないでしょうか。
もしその感覚を持てないとしたら、逆に相手チームを迎える時にそんな態度(=服装)では、非常に失礼な事をしているのに気が付かないという事になります。
そうなると、その時は直接相手から非難されなくても、段々と相手にされなくなってきます。自分の気が付かないところで排除されてしまうことになるのです。
そうならないために、最低限必要なマナーは身に付ける必要があります。
以上のようなスポーツ的なものの見方だけでなく、道着を着用することの意味としてより一層重要なことは武道に対しての心構えにあります。
古来から神聖な行為を行う際には白を着用するのが当然とされていました。穢れのない心を表わすとされているからです。それは東洋も西洋も同じで、結婚式で白いウェディングドレスを着用するのと同じ理由です。最近ではお色直しなどでカラフルなカラーのドレスを着用することも多いのですが、基本は白色にあるというのは理解してもらえると思います。
また、刀鍛冶が日本刀を鍛える際には今でも白の裃を着用して行います。暑くて汗を掻くからといって作業ズボンとTシャツで行うという事はありません。武士の魂と言われる刀を扱うのにはそれなりの礼式が求められるのです。
一般に武道を行う際には決められた服装というものがあります。ふさわしい服装と言ってもいいでしょう。現在の空手に於いては白の空手着というのが一般的なものです。
沖縄で「手」として伝えられていた時代は上半身裸で行われることも多く、本土に伝わった当初も初めは自由な服装で行われていたようです。
嘉納治五郎の招待で船越義珍が初めて武徳殿で空手演武をする際に、柔道着を援用して着用したのが空手における道着着用の嚆矢とされています。
以来、空手の特性に合わせて柔道よりも生地が薄く動きやすいものへと改良されていきましたが、基本的な構造に変更はなく、和服のスタイルを踏襲しています。
空手から派生したテコンドーでは機能性の面が優先され、シャツのようにスッポリと被るものに変更されています。これは伝統的な面より、「スポーツ」としての観点を重視しているという事でしょう
一般的な名称として「胴衣」「胴着」が用いられますが、柔道の場合は「柔道着」または単に「道着」と呼ばれます。空手の場合は「空手着」と言うことはあっても、わざわざ「空手道着」とは言いません。けれど、「道着」という呼び方は普通に用います。少林寺拳法の場合は道教の流れを汲むので道士のものと同じく「道衣」と呼ばれるそうですが、この「道」の字が付くことに重要な意味があると思います。
武道の目的は、最終的には人としての人格形成にあります。元々は闘争の手段であった「武」を通して、人としての「道」を歩いていくことが求められているわけです。ですから単に技術の上達を目指すだけでは不十分であり、精神的な修養の面が重視されるのです。
精神的な高みを目指す修行を行うのが「稽古」であり、その際の心構えにはそれなりのものが求められるのは当然です。だから稽古の際には「道着」を着用するのです。
神社で神様へ参拝するのには、斎戒沐浴して身を清め、神聖な気持ちで行うものだと言われれば、至極当然な事だと感じてもらえると思いますが、稽古の際に白い道着を着用するのはそれと同じだと言えば、少しは理解してもらえるでしょうか。
そういった精神性を理解しない人たちによって、柔道ではカラー道着が導入されてしまいました。
導入に至るまでの賛成派と反対派の主張をネットの記事から拾ってみます。
カラー柔道着反対派の主張
(反対派は日本、アメリカ、オセアニア、アフリカなど)
・白い柔道着は柔道の本質である清い心の象徴であり、伝統を重んじるべきだ
・白は「心が濁っていない」という精神的な意味合いが込められている
・カラー化すると試合着が何着も必要になり経済負担が大きい
・試合のたびに予備を含め青と白各2着ずつ持ち歩くのは重くてかさ張り面倒で邪魔くさい
・イギリスのウィンブルドン選手権はユニフォームはおろか練習用のウェアまで「白」と厳格に決められている。
賛成派の主張
(賛成派は主にヨーロッパの連盟や韓国連盟など)
・見ている人に分かりやすく、どちらが技をかけたか見やすくなり誤審が減る
・テレビ映えが良く、放映料が稼げる
・野球もサッカーもフットボールも同じ色同士で対戦しない
・柔道着はスポーツウェアに過ぎず、ファッショナブルのどこが悪いのか
・たしかに柔道に歴史や伝統はあるが、同時にオリンピック競技でありスポーツとしての側面がある。
・日本の伝統である大相撲のまわしはかつては黒と紺のみのはずだったがテレビ中継が始まってから赤や抹茶などカラフルなまわしを付ける力士が多い
・表を白、裏を青のリバーシブル柔道着を導入すれば負担は変わらない
・柔道着の色が変わったくらいで伝統や精神まで変わるとは思えない
[Wikipediaより引用]
どうでしょうか、柔道を「スポーツ」として捉えているのがわかると思います。
反対派の主張の中には精神的意味合いも入ってはいますが、他のスポーツ的な面での反論の中に埋没してしまっています。これは主張の仕方が間違っています。精神的な面こそが最大の理由であり、唯一の理由でよいのです。それを他の理由と並列することで一番重要な部分が薄まってしまっています。
賛成派の主張に
「柔道着の色が変わったくらいで伝統や精神まで変わるとは思えない」
とありますが、道着の色を変えること自体が精神性を損なっていることがわかっていないのでしょう。
スポーツ的な論点で論議すれば、商業主義に流れたオリンピックを頂点とする組織の論理にかなうはずありません。
カラー道着に反対するのにスポーツ的な事情を述べる必要はないのです。
セネガルの男子柔道選手アマディムバレ・ディオ氏は次のようにコメントしています。
「日本発祥の競技なのだから日本の主張する白のままで良い。」
その通りです。この言葉以上の事柄はありません。そんな単純な事がなぜ通用しなくなるのでしょうか。
日本は柔道発祥の地であり、その成立には武道精神が大きく寄与しているのですから、武道精神に基づいて判断するべきことなのです。
結局、柔道にカラー道着は導入され、国際大会で戦う日本人選手も何の違和感もなく青色道着を着るようになってしまいました。既に柔道は「JUDO」というスポーツになっているのだから仕方ないことなのかもしれません。
けれど道着は本来、白色を用いるものです。
そして、それは武道を稽古する上での心構えを表わしています。もちろんその武道の流儀によって決められた服装であれば、それに従うのに何もおかしいことはありませんが、簡易に流れてしまうと「Tシャツでもいいよ」となってしまうのです。
自主トレなどの時はそれほど服装に拘る必要はありませんが、全体で稽古する時には礼を正して取り組むべきであり、まずはキチンとした服装で臨むべきでしょう。
アメリカではカラフルな道着を着た「アメリカンカラテ」がけっこう流行っているようですし、柔術などでは道着にいろんなパッチを張り付け、それがファッションとしてカッコいいと思われているようです。
私はあれを見るとF1のレーシングカーを思い浮かべてしまいます。車体にスポンサーのロゴや社名を貼り付けて宣伝しているアレです。神社へ奉納されるお酒に寄進した会社名などが入っているのはよくありますが、神主さんの式服にスポンサーの名前が入っていたらおかしいと思いませんか。
柔「術」ですから武「道」としてのスタンスを求めることはできないかもしれませんが、真理を求めて稽古をするのに、ゴテゴテと宣伝を体に貼り付けた道着で行うというのはどうかと思います。
私の師範が日本で合宿を行なった際に、日本全国から道場生が集まり、夕食後に師範たちから色々なお話を伺ったりする時間がありました。その時に色紙やノートにサインをもらっている人も大勢いたのですが、その中で一人の道場生が道着の背中にサインをお願いした時です。師範は「道着にサインはしない!」とハッキリ断っておられました。
「なぜですか?」なんて恐れ多くて誰もその理由を聞く事は出来なかったのですが、今考えると、師範は稽古をする道着に人のサインが入っているというのはよくないと考えていたのだと思います。
道着にサインすることを断らない先生もおられますが、稽古をする道着にこれ見よがしにサインが入っていたり、ゴテゴテとパッチが貼り付けられていたりするのは、やはり本来の道からは外れているように思います。
以上の理由から、稽古の時にはキチンと道着を用い、威儀を正して稽古へ臨むようにするべきです。道着を着るということは、稽古に臨むに当たって意識を切り替え、集中するためのセレモニーのようなものであり、稽古の質を高めるためにも重要な役割を持つものだと思います。