稽古の目的


大会のための稽古と護身のための稽古は違う
空手は大会だけが全てではありません。
空手は武道であり、武道とは生きていく上での道を表わすものです。
武道の修行は一生であり、ここまできたら終了というものがありません。

そういったところがボクシングなどのランキングと、武道の段位(帯)の違いとしても現れているのです。
ランキングはその時点で自分より強いものがいなければチャンピオンですが、試合に負けるとその瞬間にランキングが下がってしまいます。武道では修行を経てきた過程が段位という目安で示されるのであって、段位が下がるということは通常ありません。もちろん何段になったから修行が完結するということもありません。死ぬまで修行は続くのです。

スポーツはあくまでも競技であり、一定のルールの下で他人と競い合い勝ち負けを決めるものです。
武道では最終的に打ち勝つ相手は自分自身であって、他人との優劣は問題にしていません。つまり各自の人格形成こそが武道の究極の目的であると言えるのです。
もちろんそんなレベルに到るまでには長い修行期間が必要で、最初からそんなに遠大な目標を掲げられてはとっつきにくく、それをやる人間がいなくなってしまいます。

その遠く大きな目標に到る過程の一つとして大会があり、試合があるのです。つまり武道修行の一部分をスポーツとして行なっているというわけです。

これを勘違いし、大会の結果だけを重視するようになると空手道の中身がおかしくなってきます。
スポーツでは年齢が上がり試合に出られなくなると「引退」と称して、その種目自体を行なわなくなってしまう人が多くいます。
身体能力が第一のスポーツでは仕方のないことと言えるかもしれません。
しかし空手においても同様に考える人が多く、学生のクラブ活動としてやっていたので卒業したら「引退」。大会で活躍していたが若い元気な相手に試合で勝てなくなったから「引退」では、せっかく「空手道」という武道に触れることができたのにもったいないことだと思います。

また試合を中心に考えてしまうと、勝ち負けが全てになり、試合に勝てる選手が「よい選手」で、試合に勝てる稽古が「よい稽古」になってしまいます。

稽古の中には、地味で試合には直接役に立たないものがたくさんあります。しかしそれがダメな稽古なのではありません。

もちろん若くて、元気で動ける間には「試合」に出て、自分の力がどれくらい通用するのかを試してみるのはとても大事なことです。

試合ではお互いが決められたルールの中でどれだけ頑張れるかが勝負になってきます。ですから試合に勝つためにはそのルールに対応した稽古が必要になってきます。

フルコンタクトの試合で必要とされるのは、まず試合時間の間バテずに動き続けられるスタミナが第一であり、次に多少のダメージでも耐えられる肉体、そして相手を倒すの順です。逆ではありません

もちろん「技」は試合のルールで認められているものしか使えませんし、その限られた技の中で一発で相手を倒せる技を持っている人は多くはいません。そして相手の攻撃がまったく効いていなくても、攻められっぱなしでは試合に勝てません。

まず本戦、延長、再延長まで動き続けられるスタミナをつけること。試合に勝ちたければ基礎体力が第一です。
その基礎体力をベースにして空手をする身体作りが行なわれ、それから技の稽古を行なうことができるのです。

ところが護身を念頭においた稽古の場合はこれとは違ってきます。
まず何より「技」が重要になってきます。
通り魔に襲われたり、強盗に遭ったりした時にルールは関係ありません。本当の何でもありの世界です。護身の時には一発で勝負が決まります。というより決めなければいけません。相手と何分も殴り合っていることなどありえません

護身の場合は一瞬で勝負をつけなければならないのです。

逆に言えば一瞬の油断で自分が「殺されてしまう」危険もあるわけです。
その緊張をコントロールする精神力を養うことと、瞬時に相手を制する技術を身に付けることが護身のための稽古となるわけです。

武道の本来の役割から言えば、護身の稽古を中心に行なうべきなのかもしれませんが、現代社会で武道に求められていることはそれだけではありません。
「武術」ではなく、「武道」を習おうとする人はその「道」を歩むことで人間的に成長していきたいと願っているはずです。
単に護身だけを考えるならば、空手の稽古に費やす時間をスタンガンや催涙スプレーの使い方の練習に当てた方が、ずっと早く上達して身を守るのに役立つでしょう。

ところが多くの人はそんな護身の練習をするよりも、「武道」を習って強くなろうとします。護身術的な強さだけでなく、精神的にも強くなることを多くの人が望んでいるのです。
それならば空手の稽古の中にも、精神力を高めるプログラムが求められるのではないでしょうか。

実際にアメリカの道場ではそういった要望が強いこともあって、「メディテーション(瞑想)」のクラスがあったりするのですが、空手はあくまでも稽古で流した汗の中から精神的な強さを身に付けるべきだと私は思います。 汗をかかずに強くなれるなんて事はありませんし、精神的なことだけを求めるのならば、寺に入って座禅でもした方がよいのではないでしょうか。 精神的なものは重要だと思いますが、稽古で汗を流さず、痛い思いもしないで空手を名乗って欲しくはありません。

空手においては、武道の中のスポーツの部分において、己の苦しさを乗り越える精神的なトレーニングをすることができます。
試合ルールの制約があることによって、その枠内でどれだけ頑張るかということが重要になり、そこで精神力が養成されていくわけです。

試合中にバテないためのスタミナトレーニングを汗を流しながら繰り返すところに、また、反則を犯さないよう自制心を保つところに、精神力の差が現れるのです。

つらくて苦しい稽古を乗り越えた達成感を得ることが、精神的な成長に繋がっていきます。もちろんつらくて苦しい稽古が、技術の上達にも当然繋がっていくべきものですが、これを勘違いして、しんどい稽古さえすれば上達すると思っている人もいます。

大学の体育会の空手部などはその傾向が強いと言えるでしょう。キチンとした指導員や師範が指導しているところはまだマシですが、毎日師範が稽古を見に来てくれるような恵まれたところはほとんどありません。指導するのは上級生や、卒業以来自分の稽古はしていないOBなどで、レベルが低いわりに与えられている権力だけが強く、ワケのわからない稽古を課して、「これはウチの伝統で、ものすごくツライ稽古なんだぞ」などと自慢していたりします。
ハッキリ言って バカ です。

素人目にはしんどい部分しかわからないので、どちらも同じように見えるかもしれません。けれど、しんどくても上達する稽古には必ず理由があり、それを説明することができます。

指導する側は当然それがわかっていなければいけませんが、指導される側は別にそんなことは知らなくてもいいんですけどね。わからなくてもその稽古をしてたら上達するんですから。

私の師範は「黙ってオレの言う通りにやれ」という指導法だったんですが、師範自身がすばらしい空手家であるだけでなく実際に多くの強い選手を育てていましたから、その言葉には説得力があり、黙って付いていけば間違いないという信頼感がありました。

しかし、それを形だけマネして、自分はそうやって強くなったんだからこうやれと、同じことを生徒にやらせてもうまくいきません。なぜそうなるかをわかっていないと教わる側のタイプに合わせて指導を変えることもできませんし、同じことをやっているつもりでも微妙に本来の形から変わってきたりした時にそのことに気付くことができません。

昔の指導者は細かい説明をせずに、「黙ってオレの言う通りにやれ」といった式が多かったのですが、それを思い違いして、教わる側は何もわからなくてもいいというのは間違っています。
レベルが高くなってくるとしんどさのレベルも上がってくるので、上達する理由がわかっていないと心理的になかなか頑張れないものです。

しんどい稽古を乗り越えると精神的には強くなりますが、どうせしんどくてつらい思いをするのなら、合理的に強くなれる稽古を選ぶべきだと思います。上のレベルになっていくほど合理的な稽古であっても「しんどい」のですから、わざわざしんどいのにうまくならない稽古をする必要はないでしょう。

そうやってしんどい稽古をしていても、大会がスポーツである以上、元気で運動能力の高い若者に試合で勝てなくなってくる時がやってきます。
その時に「勝てないから引退」ではなく、試合の結果以外に自分の空手に目標を持つことができるようになっていて欲しいものです。

スポーツとしてではなくて、武道としての空手をしているのだという人であっても、しんどい稽古をしなくてよいというわけではありません。現在の自分の中でどれだけ頑張ることができるのかということが、武道的に大事になってくるのです。

武術的な稽古とスポーツ的な稽古の両方を行なうことが、現代の武道として空手道に求められているものだと思います。


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