安全性への意識


脳震盪


その時の対処


 以前、ある大会にウチの道場生が出るので試合を見に行った時の事です。

 自分の生徒の試合を待つ間、他のコートでやっていた一般部の試合を見ていました。さすがにレベルの高い選手が出ており、中でもひと際いい動きをする選手がいました。

 対戦相手がパワーで突っ込んでくるのを絶妙のステップと体捌きでかわしていたのですが、その動きの中で相手の蹴りに合わせて放った軸足払いが見事に決まり、相手は空中で半回転した後、バックドロップのような形で後頭部から真っ逆さまに落ちてしまいました。
 下にはクッション用のマットが敷いてあったのですが、もう落ちた瞬間に失神したとわかるような落ち方でした。

 すぐに大会ドクターが呼ばれ、コートの横へ運ばれて診てもらったところ、ほどなく意識を取り戻し、大事には至らなくて済みました。
 私も本部席の横で見ながら大ケガにならなくて良かったと胸を撫で下ろしていました。

 当然、試合続行不可能による棄権で試合が決まったと思っていたのですが、本部席の大会主催者のところへ気を失った選手のセコンドが来て、
「もう少し休憩したらできます!」
と話しているではありませんか。

 確かに、転倒しただけならばアクシデントとして処理して試合続行しても構わないでしょう。しかし、倒れた時の打ち所が悪く、意識を失ってしばらく起き上がれないような脳震盪を起こしているのです。意識が戻って動けるようになったからといっても、脳内で細い血管が切れていたり、しばらくしてから脳浮腫を起こしたりする可能性もあります。

 最近では脳へのダメージに対する対応は、他のスポーツでも厳しくなっています。
ラグビーであれば失神した後、3日間は試合の出場が禁止され、更にドクターの診断書を提出しなければ試合に出ることができません。

 意識のない選手にヤカンの水を頭から掛けて、元気になって試合に復帰するという「魔法の水」伝説は、もはや二度と見ることのできない本当の伝説になっています。

 反則ではない足払いで倒れて意識を失っているのだから、一本勝ちでもおかしくないのではないか、と言う先生もいました。しかし、選手もセコンドもそれまで試合へ向けて稽古してきた思いが強いほど、動けるならば大丈夫だと思ってしまいがちで、大会主催者もできるのならばやらせてあげたいと考えてしまうものです。

 しかし、選手の体の事を考えるとやはり頭へダメージがある場合は安全策を取った方がいいと思います。

 その大会の主催者は私の現役時代の試合を見たことがあるということで、わりと親しく話ができる間柄だったため、思わず傍へ行って、意識を失った後に続けるのは危険であると言ったのです。
 主催者の方は、もちろん医者である大会ドクターの意見も聞いていますとのことでしたが、結局はドクターストップを入れてもらい試合は行われませんでした。

 後でその先生から
「やらせてあげたい気持ちがあったが、言って頂いたおかげで決断することができました。」
と、お礼を言われました。

 この方は、現役時代には空手界で一つの金字塔を打ち立てている素晴らしい実績を残している方なのですが、こういう点は非常に謙虚な方です。別のコラムでも書いていますが、やはり強い人ほど謙虚ですね。
 大会スタッフでも連盟加入団体でもない他流の人間の意見を、素直に取り入れることができるというだけで、その人の器の大きさがわかるというものです。

 何にしろ、今回は大事に至らずに済みました。おそらくほとんどの場合は何もないことでしょう。けれど頭のケガに関しては脳の損傷と関わってくるので万全を期すべきだと思います。

 以前に社会的な話題となった空手での事故について、新聞記事の内容を転記します。
 (個人名等は事故から時間が経っている事を考慮し、イニシャルでの表記に替えています。)


高校生空手部員が一時重体 脳振盪後に走りこみ
 熊本市の私立K高校(生徒1054人)で7月、空手道部の練習中に脳振盪(しんとう)で倒れた1年の男子生徒が直後に走り込みをさせられ、翌日に急性硬膜下血腫で倒れ意識不明の重体になっていたことがわかった。意識は戻ったが、現在も実家のある佐賀県内の病院に入院し、重い後遺症で歩けない状態という。T校長は「このような事故が起き申し訳ない。走り込みはしごきとは判断していない」と話している。
 同校によると、生徒は7月10日、組手の練習中、あご付近に突きを受けてひざから崩れるように倒れた。いったん道場内に寝かされたが、数分後に部長の男性教諭(39)の指示で、グラウンドでタイヤを引いての30メートルダッシュなどを数回させられた。
 翌11日の放課後、生徒が職員室を訪ねて頭痛と吐き気を訴え、「病院に行きたい」と話した。部長は認めず、道場へ行くよう促したところ、生徒は職員室を出る際に倒れた。部長は生徒を床に寝かせて様子を見たが救急車は呼ばず、別の職員が119番通報したのは約40分後だったという。
 生徒はスポーツ特待生で寮暮らしだった。6月下旬に約2週間、「部をやめたい」と実家に戻り、7月9日に練習を再開したばかりだった。部はK県高校総体で男子団体組手3連覇中の強豪。
 Y容疑者は全国高体連空手道部の強化部委員会委員で、 同部監修の競技力向上用DVDで実技も披露している。

(毎日新聞2007年10月24日付)


 どうでしょう、その後にその男子生徒がどこまで回復したのかはわかりませんが、指導者としては背筋の寒くなるような事件です。

 この高校の指導者はある程度の実績があったために、きっと大丈夫だろうという変な自信があったのでしょう。
 また基本的に高校のクラブは高体連に所属しているため、「寸止め」形式で稽古していることから、ガンガンなぐり合った場合の影響について経験があまりなかったのかもしれません。

 何にしろ、脳へダメージがあった後激しく動いたことで症状が悪化したのに間違いはありません。

 だいたい脳を振られてダウンした後にタイヤを引いてダッシュ繰り返すなんて、ちょっと救急法を学んていれば、やってはいけない事だとわかりそうなもんなんですがね。

 また、少し前まで非常にメジャーであったキックボクシング形式の大会で、一人の若者がパンチを受けてダウンし、そのまま帰らぬ人となってしまった事故を記憶されている方もいると思います。
 主催は大手の空手団体なんですが、現在はその館長代行を務めておられる方からその後の対応の大変さを聞かせてもらったことがあります。

 選手である当人が、本当に「死ぬ」とはもちろん思っていなかったとしても、やる以上は「死ぬ気で」という気持ちで行うのは、ある意味当然かもしれません。
 けれど、その親にとっては大事な子供が試合で死ぬことを「仕方ない」などとは絶対に思えないものです。
 どんなに恨み言を言われても黙って聞くしかなかった。身内の悲しみを考えたら、絶対に死者が出るような事故を起こしてはいけないんだと、その先生は繰り返しおっしゃっていました。
本当にその通りです。

 空手をやるのに「命を懸けて」などとよく言いますが、実際に命を失うようなことになれば、回りの者の悲しみは計り知れないものです。

 町で絡まれたり暴漢に襲われたりした時に、そんな事態にならないように身を守る術として空手を稽古しているはずです。

 それが逆に、空手をすることで命に危険が迫ったのでは本末転倒です。激しい稽古という名目で安全をないがしろにしてはいけません。

 安全に強くなっていくことこそが、空手に対して世の中から求められている事であると思います。


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