力無き正義は無能なり。されど正義なき力は暴力なり。
この言葉は故 大山倍達総裁が言われていた言葉です。どんなに正しい事であっても、それを行なうには
それだけの力を持っていなければならない。正しい事が通用する世の中になっていくよう社会を良くするための努力は皆がするべきですが、現実の世の中では
正しいことを行なうにも力が必要とされるのです。
このニュース記事を見てください。先日あった事件でネットでもかなり話題になったものです。
電車の中でタバコを吸っていた男に高校生が注意したところ、
相手が逆ギレして暴力を振るわれ、
大ケガしたというのです。
「許せない!」「なんてひどい奴だ」
「高校生の子は勇気がある」
このような意見がネット上に溢れました。
もちろんその通りです。犯人の男は捕まっていますから、当然、裁判で有罪として判決が出され、それなりの罰を受けることになるでしょう。
けれど、それで
「良かった」と言えるのでしょうか。
ニュース記事にあるように、この高校生にとってこのことは大きなトラウマになるでしょう。しかし、何より、最後に父親が言っているように
「生きていて良かった」のです。
一歩間違えれば殺されていたかもしれませんし、後遺症が残ったりしたら、犯人が捕まったとしても
「めでたし、めでたし」で終わることではないのです。
男子高校生の取った
行動は間違っていたのでしょうか。いいえ、もちろん彼の取った行動は
正しい事です。電車の中でタバコを吸ってるような常識のない奴に注意する。
正しい行動で、勇気ある行為だと思います。けれど、彼にはそれを行なうだけの
「力」がなかったのです。
どんなに正しい行動でも、今の世の中ではそれを通すことができない時があります。
この犯人はいったん逃げたのですが、監視カメラの台数が増えた事で、逃げた経路がすぐに特定されて捕まりました。
裁判では当然有罪が言い渡され、刑務所に入ることになるでしょう。
だから「これで良かった」のでしょうか。
高校生の男の子は頭を踏みつけられて謝らせられて悔しかったと述べています。
この高校生が暴行を受けていた時、友人は止めようとしていたけれど、
回りの乗客は誰も助けに入らなかったと初めは報道されていました。ネット上ではそんな回りの大人を非難する論調もありましたが、実際に目の前で暴力行為が行われ、止めに入ると
自分に被害が及ぶかもしれないという時に、声を上げられなかった人を
責めるのは酷というものです。
それに後日の追加情報では、駅員に連絡したり、証拠映像をスマホで撮影したりした人が何人もいたようです。
そういった人たちの証言や映像証拠があればこそ、裁判時に「正当防衛だ」などとふざけたことを言っている犯人をキチンと裁く材料となるものですから、これはこれで
とても重要な協力行為だと思います。
その場で体を張って止めに入らなかったのを責める論調もありますが、その気持ちはわかります。止めに入ったことで自分に攻撃の矛先が向くかもしれないと考えると
黙ってうつむくしかできない人は
大勢いるでしょう。
けれど、正しい行為(電車内でタバコを吸っているのを注意)をした方が理不尽な暴力を受けているのに見て見ぬふりをするなんて、
自分自身が情けなくないでしょうか。そして、万一、この高校生が亡くなっていたりしたら、あの時、
なぜ助けに入らなかったのかと後悔しないでしょうか。
ネット上でのコメントには「こんな頭のおかしい奴には最初からかかわらない方がいい」という意見が挙げられていました。至極
まっとうな意見です。
私自身、電車でタバコを吸ってるような奴を見掛けたとしても、
たぶん注意しないでしょう。近寄らないし、電車が空いていたら別の車両へ移ると思います。
なぜなら、こんな奴は今回のように
逆ギレして掛かってくることがあるからです。
それが怖いのか?勿論それもありますが、理由がそれではありません。もし、トラブルになったとしたら、私は当然
全力でぶちのめしに掛かります。何しろこいつはこの寒い中、ワザワザ半袖のTシャツになって入れ墨を見せびらかしていたような奴ですから、ナイフなどを隠し持っていたりすることもあります。だから、
やるとなったら全力で、です。
しかし、それで相手がケガをしたら今の日本の法律では
「過剰防衛」としてこちらが罪に問われるのです。空手をやっているのだから、
相手をケガさせない程度に制して、などと
理想論を言うバカな識者がいたりしますが、外でのトラブルは一歩間違えれば
こちらの命が危険にさらされることになるのです。
そんな眠たいことを言ってるのは本当の危険な状況に陥ったことのない奴です。そして、日本の法律はそんな状況になったことのないエリートが作った
机上の空論です。
「正当防衛」に関してはまた別の文章で詳しく述べる予定ですが、とにかく、
やるとなったら徹底的にです。但し、その結果、過剰防衛に問われたら、
その結果は自分で負わなければいけません。
ですから私はできるだけトラブルを避けたいと思っています。
けれども、です。
自分に掛けられた迷惑なら少しくらい
我慢してやり過ごせばいいのですが、今回のように明らかに
非の無い高校生が目の前でやられていたりしたら、
助けに入るべきなんじゃないでしょうか。
何のために空手をやっているのか。
まずは自分の
身を守るためです。しかし、回りの人を助けるための
行動を起こせないとしたら、
何のために空手をやっているのだと言われてもしかたないのではないでしょうか。
この高校生の行動は勇気があり、賞賛されるべきものですが、謂わば返り討ちに遭い、土下座させられ、その頭を踏まれるという状態に陥り、顔面の骨折など大怪我を負っています。
彼はプライドを傷付けられ、大ケガする可能性もあったことを
やるべきだったのでしょうか。
こんな相手に注意するなら、
それなりの力を持っていなくてはいけないのです。
今回の事件の遠因は、理想主義に陥っている学校教育(及び、社会の要請)にあるというのは言い過ぎでしょうか。
今の学校では取っ組み合いのケンカなんて少なくなって、力を使ってケンカしようものなら
「暴力はいけません!」と厳しく指導されます。
もちろん暴力に対する指導は必要ですが、それがあまりに行き過ぎて
陰湿なイジメに繋がっているのではないかと私は考えます。
それゆえ、正しい事を言ったものは賞賛され、悪いことをした奴は先生だけでなく、他のクラスメートからも
責められ、非難されることになります。
正しい事は正しい、悪い事は悪いと
指導するのは大切ですが、それが
「そうなって当然」と思い込むのは危険です。「自分は正しい事をしているんだから相手が従うのは当たり前だ」という態度は、その正義を担保してくれる
強制力を持った「力」がなければ机上の空論(
絵に描いた餅)になってしまうのです。
それなのに、そんな
庇護された世界の中のやり方を外の世界で通そうとすると、大きなしっぺ返しを食らうことになります。
もちろん、それは
「正義」で、正しい事であったとしても、それが通用するのは教師やクラスメートによる圧力が
強制力となっているからです。
今回、電車内の回りの乗客はその場で誰も助けに入らなかったそうですが、暴力の矛先が自分に向けられたらという恐怖がありますから、一概に責めることはできないと思います。(
情けないとは思いますがね)
こんな場面で回りのみんなが協力して悪い奴を抑え込むような社会こそ理想ですが、実際の現場でこのような場面に出くわしたら、
被害を受けないようにするのが第一で、自らトラブルになりそうな事は避けるべきだと思います。
もし、どうしても許せないと思い、注意しなければならないのならば、
それに対応する力を持っていなくてはなりません。
「正しい事を言うのだから相手が従って当然」なんて考えてはいけないのです。
世の中には常識の通じない相手がいます。
注意されたのに対して顔を近づけ威嚇したのを高校生が離れてくださいと押し返した事で
「相手が先に手を出した」「正当防衛だ」と犯人の男は警察で主張しているそうです。もしかしたら
本気でそう思っているのかもしれません。そんな相手に関わるべきではありませんし、もし、注意するなら相手を制圧できるだけの
力を持っていなくてはいけません。
いくら
倫理的に正しい事をしたのだとしても、こちらが
被害を受けたのではだめなのです。
この高校生の父親が述べていたように
「生きていて良かった」は実感で、まさにその通りです。
顔面骨折の上、土下座させられ、頭を踏みつけられている状態ですから、一歩間違えば首の骨が折れたり、脳に障害を負ったりした危険があったのです。
いくら法治国家で治安も良く、戦争もない日本に住んでいるとしても、こういった
理不尽な無法者と関わる危険はあるのです。
「力無き正義は無能なり」これは
真実です。
自分自身が正しい事を行ないたいなら力を付けなければなりません。
そして、その力があるとしても
使わずに済むのならその方が良いのです。
けれど、もし、目の前でこのような理不尽な出来事が起こっていたら、
助けに入ってほしいものです。
自分を守るのが第一ですが、
回りの人を助けられる力を持つ事。空手を学ぶ人には是非とも
その力と勇気を持って欲しいと思っています。
空手を学んでいる人には、まず自分の身を守る力を持ち、更に目の前で理不尽な暴力を受ける人がいたら、たとえ、自分の力では及ばないかもしれないと思える時でも
一歩踏み出す勇気を振り絞って
助けに入ってほしいと思います。
空手を学ぶ中でその勇気を持てるようになり、
正義を通せる人になってもらいたいと思います。