試合での


応援禁止


必要なのか?
 表題に挙げた件について、以前に別の題で書いた文章の中で私の意見を述べたことがあります。
 けれど、その内容である団体名を名指しで表記したため、その団体より抗議を受けることとなりました。そこで主張している内容について過誤は無いものと自負していますが、誤解を与える部分もあったため、一旦はコラム全文を閲覧不可としています。そのため、表記の件についても読めなくなっているので、ここで少し詳しく述べてみたいと思います。

 最近は少年部の大会も増え、それにつれて試合を観戦するのも、道場内の仲間だけでなく子供の保護者や友人などが増え、道場で指導を受けていない人も含めた大勢の人が試合コートのすぐ傍で応援する姿が見られるようになりました。
 それにつれて、応援のマナーや態度にひどいものが見られるようになってきました。
 以前は、道場内の仲間などがセコンドに付いていたので、道場の先生からある程度は指導もされており、それほどひどいヤジのようなものも少なかったように思います。

 ところが、最近は大会結果のみを求める空手指導者も少なくないようで、ひどい応援を正すどころか、助長するようなことを一緒になって行なう人もいたりします。
 心ある空手指導者はそのような状況を苦々しく思い、同時にマナーの悪い者は次第に敬遠され疎外されていくようになっていますし、応援マナーについてもかなり改善されてきているように思います。
 しかし、道場生の保護者や、その友人にまで中々指導が行き届かないのは、ある意味仕方ないものかもしれません。

 けれど、です。
「試合中に選手を応援してはいけない」というのはどうなのでしょう。

 確かに大会は一見静かになり、スムーズに進行しているように思えます。
 審判のジャッジや笛もよく聞こえ、何も知らずに大会を見に来た人は「マナーの良い落ち着いた大会だ」と思うかもしれません。
 しかし、私は「それがそんなに大切なのか?」と思うのです。主催者はいったい何を目的に大会を開き、選手は何を求めて参加しているのかという事が抜け落ちているのではないかと思うのです。

 応援も無く粛々と組手をするだけなら道場内の稽古でやっていたらいいんです。普段の稽古と違う雰囲気の中で組手をするから試合としての価値があるのでしょう。

 ある大会では応援禁止の理由として、次のような説明がなされていました。
「選手本人が考え、判断し、行動する事に集中できる環境作りのため、試合中の選手への応援やアドバイスは禁止」するのだそうです。

 一見すると尤もらしく聞こえますが、これが少年部の大会だということを忘れていないでしょうか。いや、一般部であっても同じことです。
 ボクシングの世界チャンピオンを決めるタイトル戦であっても、必ずセコンドは付きますし、アドバイスも受けます。世界チャンピオンになるような人であっても、ですよ。
 それなのに、まだ年端の行かない子供に対して「本人が考え、判断し、行動する事に集中」なんて事を求めるのは無理な話です。

 もちろん、そういったことを求めて空手をさせるのに異論はありませんが、それは普段の稽古の中で行なうべきものでしょう。
 いつもと違う試合の場で、緊張し、上がっている子供に対して、指導者や保護者からの声援がどれほど力になるか。そして、それによってやっと力を発揮できる子供もいるのですから、どんどん応援してやるべきだと思います。持っている力をすべて発揮してこそ、試合に出た価値があるというものです。
 誰からの応援も無く、普段の力を全く出せないまま敗退したとしたら、それこそ試合に出た意味がありません。
 子供のうちから「自分で考え、判断し、行動する事に集中」して試合できる子がいるとしたら、それだけで天才です。そうでない子を励まし、応援する事で本人が頑張れるのだとしたら、その方がよっぽど大会を行なう意義があると思います。

 また、スポーツとして見た場合、「声援のない」試合はどうなのでしょうか。

 恐らくは、これまでの多くの大会で、聞くに堪えないヤジや相手選手への罵倒があったりしたことから、このような対策が採られたのでしょうが、自分が応援する選手に声も掛けられないというのはスポーツ競技として見た場合、絶対におかしいと思います。
 試合会場で選手に声援を送るのを禁止している種目なんて他にあるのでしょうか。私は寡聞にして知りません。
 もちろん、ゴルフのパット時や体操競技の演技など、極度の集中が必要とされる場面で声を出すのはいけませんが、空手のような対戦型のスポーツで観客が声援してはいけないなどというのはまったくナンセンスです。更に言えば、それを徹底するならば、そのスポーツ種目が発展することは絶対にないでしょう。

 スポーツではなく「武道」として品位を持って・・・などと言われると、なるほどその通りだと思われる方もいるかもしれませんが、ルールを決めて試合をしている時点で、それは「スポーツ」です。武道の中のスポーツの部分で競技をしているのを忘れ、スポーツとしての本来の役割を忘れてしまってはいけません。武道 = スポーツではないと思いますが、スポーツで培われる特性には武道の面から見ても有用な部分が多くあります。

 これからの世の中で求められる武道は、スポーツとしての面をいかに活用して生かすかという事が重要になっていると思います。
 「武道の大会はこうあるべき」などという古臭い考えに捉われることなく、武道の中のスポーツの良い面を活用し、伸ばしていくことが必要ではないでしょうか。

 武道として見るなら「声援」など必要ないかもしれませんが、それなら最初から「試合」に出る必要もありません。山にでも篭って一人で黙々と稽古してたらいいんです。決められたルールの中で競技する時点でそれはスポーツです。

 それでは、スポーツで応援があるのと無いのとでは、どのように違うのかを考えてみましょう。
 まず、応援や声援の無い試合は覇気に欠けます。見ている側だけでなく、やっている側も今ひとつ盛り上がりの無いものとなり活気がありません
 「声は勢」とは大山泰彦師範の言葉ですが、大きな声が出ている方が勢いがあります。やっている者も応援を受ける事で力付けられ、挫けそうな心を奮い立たせて頑張る事ができます。

 セコンドのアドバイスの重要性も大切な問題です。応援の中から聞こえる先生や仲間のアドバイスが試合の流れを変えるきっかけとなり、展開が変わることもあります。
 そういう経験を積めるのも試合ならではのものでしょう。

 また、応援を受けるという事は、自分が応援されているのを知るという事です。  自分が応援してもらっている事を自覚し、それに感謝する事で、周りの協力があるからこそ今の自分があるということに気付くのです。
 だから、同じように他の仲間が試合に出た時に応援しようという気になり、仲間との連帯感が育つことになるのです。そういう仲間意識を持つようにするのも「武道」には求められているのではないでしょうか。

 空手がオリンピック種目になるのは個人的には賛成できませんが、武道としての空手の中にもスポーツ的な部分があり、世の中で空手道が必要とされる理由の一つとして、見る側(観客側)に及ぼす効果も忘れるわけにはいきません。
 スポーツの語源は「気晴らし」ですが、それはやる側だけではなく、見る側についても言えることです。
 世の中で「スポーツ」の有用性、必要性が叫ばれるのには、応援者のカタルシス(心の浄化)が必要とされているからだと思います。

 普段の生活の中で溜まったストレスの発散にスポーツが有用なのはプレイヤーに限らず、観戦する者にとっても同様です。自分では中々やる時間が取れなかったり、運動能力がなかったりする者にとっては、大きな声援を送る事で気持ちが開放され、精一杯に応援する事でストレスが発散されるのです。だからこそ野球やサッカーがあれだけの人気を誇れるのです。
 「武道」を見てストレスの発散なんて不謹慎だ、などと言う人は、武道の持つスポーツ面の有用性に気付いていない人です。現代の武道からスポーツ的側面を取り除いてしまうと、恐らく世の中では必要とされず、後世に残っていく事はできないでしょう。

 応援を禁止するという事は、自分ではやらないけれど「空手」を応援してくれるという人締め出す事になってしまいます。現代の世の中で必要とされる武道は、やる人だけではなく、それをしない人にとっても有用で支持されるものでなくてはいけません。

 空手という武道が世の中で市民権を得て、普及、発展していくためにも、試合で「応援禁止」などという事はするべきではないと私は考えます。


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