「無念無想」とか
「無我の境地」などと言うと、山奥で座禅を組んで修行しなければならないようなイメージがありますが、人生の悟りを開くなどという大げさな事ではなく、空手においては組手の中で無意識に攻防を行なう中にその真髄が表れているように思います。
少し以前の記事ですが、今もサッカー界の世界のトップで活躍するブラジルの
ネイマール選手の脳をMRIで検査した結果が
新聞に掲載されていました。
この記事に拠ると、
同じ動作をしていても他の選手に較べて
脳の活動が少なくて済んでいるため、脳の他の部分を周りの状況の判断やフェイントのために使えるのだそうです。
普通、
「集中する」と言われると、その事だけで頭いっぱいになってわき目も振らずに没頭するというイメージがありますが、一流選手になると
身体操作に意識を向けているのは
ほんの僅かで、その他の部分(目の前の敵の動きや周囲の状況など)に広く意識を向けているからパスやシュートを自在に打ち分けられるというのです。
集中していればこそ最低限の脳の活動で手足を動かす事ができるため、
余裕を持って周りの状況を判断できるということです。
ネイマール選手はアマチュア選手の
7%しか脳を使っていないというのですから、残り93%は相手の動きや周りの状況を確認してプレイする事ができるわけです。そりゃあ、敵う訳ないですよね。
身近な例として、
自転車で考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。
初めて自転車に乗ろうとした時、右に倒れそうになったら右へハンドルを切って、同時にペダルを漕いで前進する力を利用し反対側へ重心を移動して・・・など、乗れるようになるまでは脳内の意識を
100%乗る事に集中して練習をしたと思います。
ところが乗り慣れてくると、自転車の操作に意識を向ける割合はほとんどないといっていいくらい無意識に乗れるようになるものです。
あまり良くない例ですが、イヤホンで
音楽を聴いている状態でスマートホンで
LINEしながら
自転車に乗っている人を見掛けます。多くの事を同時にこなしてはいますが、意識の中心は文字を打つことに向けられており、
自転車に乗るという身体操作には
ほとんど意識は向いていません。
なぜ、そんなことができるのか。
無意識にバランスを取りながら自転車を漕げるくらい自然に運転できるまでに
乗り慣れているからです。
昨日今日、自転車に乗れるようになったばかりの人にこんな事は絶対にできません。
空手の技もこれと同じです。
稽古の時にはコンビネーションを考え、それを何度も反復し、身体が自然に動く(=頭で意識しなくても動ける)ようになるまで繰り返すのです。
同じように突いて、蹴って、とやっていても脳内の使える部分に余裕があれば、相手のガードが甘いところを見極めて攻める事ができます。
そうなるためには
「稽古、稽古」です。
繰り返し一つの技を稽古することにより、
意識せずにその技を出せるようになっていきます。慣れていないうちは技を出しながらバランスや手足の位置など色々気を取られることが多く、必死でその技をコントロールしようとしますが、何度も繰り返し稽古するうちに意識せずとも
自然と身体が動くようになってきます。
意識する部分が減るのですから、その分、相手の動きを察知する余裕ができるというものです。
私の経験上、組手の中で技が決まるのは、相手との技の応酬の中で
自然に出した時がほとんどで、
「この突きをサバいてここを突いたらガードが下がるからそこで空いてる所を蹴って・・・」
なんて
考えた技が決まるなんてことは
ほとんどありませんでした。攻防の流れの中で自然と出した技の方がキレイに決まることが多いものです。
身体で覚えた技は頭で考えなくても
自然に出てきます。言い換えればそうなるまで技を磨かなければなりません。稽古の時にその技を集中して繰り返し行なう事で、試合の時には無意識で出せるようになるのです。そうすれば余裕を持って相手を見れるし、自分自身も焦ってカタくなる事がなくなります。
来た技に
無意識に反応し、受けた後は
無意識に反撃する。
「無意識に」とは言ってもそこには最低限の脳の活動があり、それは稽古の繰り返しによって培われた
積み重ねの技術だという事です。
的確に技を入れるためには、身体に技が染み付いていなければなりません。
そのためには何度も同じ技を繰り返し、何度も同じコンビネーションをやり続けるのです。
上達に近道がないというのは、こういうことを言うのだと思います。
有名な選手に憧れ、その動きやプレイの真似をするのは
間違いではありませんし、うまくなるための良い方法ではありますが、見た目の派手さを真似るのではなく、一つの技を無意識に出せるくらい
数をこなして習熟するというところを見習うべきではないでしょうか。