ミスター


素質の無い者が強くなるための秘訣
私の道場と友好関係にある空手団体で空手を続けている障害者の方がいます。
ネット上なので本名は控えて、ここでは仮に彼を「Mr.N」、略して「ミスター」としておきましょう。

ミスターは生まれつきの障害者ではありません。
元々とても気が小さく、相手の目を見て話をすることも出来ないほどでした。
運動能力もあるとは言えず、空手なんてとてもできそうにない、いわばいじめられるタイプです。
ボクシングの内藤大介選手が子供のころはいじめられっ子だったと言っていますが、それとは比較にならない位にいじめられやすいタイプです。
普通に稽古をしていただけなら、きっともう空手を続けていることはできていないでしょう。

幸か不幸か、ミスターは大きな事故に出会います。それは正にアクシデントと言うのにふさわしい突発的な出来事でした。
稽古の最中、組手を行っている時に相手の上段回し蹴りをまともに喰らい昏倒してしまいます。これだけならどの道場でも割とよく見られる光景ですが、ミスターは元々脳の血管に弱い部分があったようで脳内出血を起こしました。すぐに病院に運ばれオペの後に集中治療室での治療が続けられますが、担当ドクターによると一生寝たきりか、良くても車椅子から立てないでしょう、という悲惨な状態でした。
普通の人ならここでショックを受けて生きる希望さえ失してしまう人もいるのではないでしょうか。ところがミスターは非常に前向きな性格なのか、根が単純だったのかはわかりませんが、病状が安定してから猛烈にリハビリを始めます。

彼の師範がうまく気持ちを引きつけ、モチベーションを上げるように指導したこともあって、ミスターは諦めず懸命にリハビリを行います。
その結果、歩くことはもう不可能と言われたミスターが、歩けるようになりました。これだけでも医学的には「奇跡」に近いことなんですが、さらにリハビリを続け、空手の稽古を再開します。

ここまで書くと、実は大した事のないケガだったんじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、ミスターは半身不随で一級身障者手帳を交付されています。右腕は曲げ伸ばしが満足にできなくなり、字を書くのも箸を持つのも左手に替えざるを得ませんでした。右足は今もびっこを引きずっています。
ところがミスターはそんな身体の状態でも健康な人に混じって稽古をしています。しかも彼の師範は普通の組手稽古に彼を放り込みます。また彼の稽古仲間はそんなミスターに手加減なく下段回し蹴りを叩き込みます。知らない人が見たら、完全に障害者をいたぶっているようにしか見えないでしょう。ところがこれが彼にとってはいい刺激になって頑張る意識を持たせているのでしょう。自由になる左の突きを駆使して相手と打ち合います。不自由な脚を軸にして下段の蹴りを出し、必死で相手と戦います。

空手仲間が普通に扱うからこそ、彼は普通に接することができるのです。
そこに彼の道場の良さがあると言っていいでしょう。

ミスターのすごい所はそれだけではありません。空手の試合に出場するのです。空手の大会に障害者クラスなんてものはありません。一般の健常者に混じって試合に出るのです。道場内での組手ならば、いくら手加減無しだとは言っても、ミスターの身体のことを知っているので、最後のところでは全力で攻めるのに気が引けてしまうものです。
ところが試合場で他流派が相手となればそんなわけにはいきません。わざわざ試合に出てきて手加減して負けてやるほどお人好しはいません。相手がどんな技を出してくるのかもわからないのです。
しかし試合でのミスターの気合の入り方は並ではありません。全日本の選手でもここまで気合を入れて試合している選手は少ないのではないかと思えるほどテンションを上げて試合に臨みます。
気合だけではありません。その唯一とも言える攻撃技の左の突きを相手に効かせて試合に勝ったことさえあるのです。

脱帽です。

いつも試合を観ていて感動します。そして反省させられます。
一体我々はミスターの何分の一でも真剣な気持ちで試合に臨んでいるだろうかと。

もし自分が半身不随の状態で試合に出る事ができるだろうか。とても怖くてできないと思います。そんなことを考えるたびにミスターをリスペクトする気持ちが溢れてきます。

すべての空手家は彼を見ればもっと自分は稽古しなくては、と思うはずです。
すべての空手家は彼を見て、もっと自分は稽古しなければと思わなくてはなりません

ミスターをほめる文章が続きましたが、ミスター個人は「かなり」変わった人なんですけどね。ミスターからの聞き取りにくい電話攻撃で困っているのは私だけではないでしょう。(もちろん裏で糸を引いているのがいるんですが)
とにかく、もし彼が空手をやっていなかったとしたら、単なる「へんなヤツ」で終わっているはずです。

ところで、そんなミスターが空手を続けられている理由を考えてみましょう。

それは彼の師範がうまく指導しているからに他ならないのですが、その中身を少し詳しく検証してみたいと思います。

彼の師範は以前に身体障害者のケア施設で働いていたこともあって、障害のある人への対応に慣れています。私も彼といっしょに身体障害者の入浴介助を手伝ったことがあるのですが、慣れていない私からすると腕や脚の曲げ伸ばしもままならない人を動かすということにかなり不安がありました。
ところが彼は
「そこはもっとグイッと押しても大丈夫やで」
などと指示を出して、どんどん動かしていきます。そして、されている人を見ていても確かに大丈夫なんですよね。
それにそうやって動かしている方が、関節が固まらなくていいらしいんです。

私はその一例を見ただけなんですが、ミスターの師範はそういった経験をたくさん積んでいるのです。

知らない人からすると「無茶」に見えてしまうことをやらせているのも、障害者に対する理解と、空手の経験の両方が十分に無ければとてもできないことです。

そして、ここには健康な人の上達にも関連する重要な事実があるのです。

それは肉体的限界心理的限界の違いを見極めることが、レベルを高めるのには非常に重要であるということです。

一般的には肉体的限界よりも先に心理的限界が来るものです。
そこでつらいからやめる、苦しいから手を抜くと、いつまで経ってもそれ以上のレベルに進むことができません。ですから稽古では精神力を高めることが必要になります。
心を鍛えることで初めて肉体的にハードなトレーニングを行うことができるようになり、それを積み重ねる事で肉体的限界がどんどん高まっていくのです。

ところがこの肉体的限界というものは当然ながら個人差が大きくあります。
ですから、みんなと同じように稽古しているからといっても全員が同じペースでレベルが上がっていくということはありません。

人の元々持っている身体的素質は千差万別です。運動能力に恵まれている人もいれば、どんくさくて同じことがなかなかうまくできない人もいます。そして身体的素質というものは持って生まれたもので努力で何とかできるものではないのです。

このことを無視して
「みんなができているのに、なぜお前はできないんだ。気合が入っていないからできないんだ。」
というのは指導者の認識不足です。

それは
「みんな身長が170cm以上あるのに、なぜお前は165cmなんだ。努力が足りないから背が伸びないんだ。」
と言うようなもんです。
身長160cmの人がどんなに努力しても180cmには絶対なれません。
それは「持って生まれたもの」だからです。

同様に、夏の炎天下で同じ練習をしていても、熱射病で倒れるヤツと倒れずに頑張れるヤツがいるのは本人のヤル気の違いではありません
限界点は人によって違うのです。
そこを指導者が見極めてやらなければなりません。

ハードな練習についてこれないのは本人のヤル気がないからだ、と厳しい練習を続け、残ることが出来るのはもともと素質のあるヤツなんです。
素質のあるヤツにハードな稽古をさせていれば強くなるのは当たり前です。

それなら素質のあるヤツに、素質の無い者が勝つことはできないのでしょうか。

確かに肉体的素質は変える事が出来ないし、それによって生み出されるパフォーマンスの差はどうすることも出来ません。
けれども精神的な部分は努力で大きく変えることが出来ます。
しかも、空手の試合においては肉体的な差で負けてしまうことより、精神的に負けてしまう事の方が多くあります。しかもそれは「相手に負ける」事よりも「自分に負ける」場合がほとんどです。
自分に負けないように努力することが、稽古の重要な目的の一つです。そしてそれを手に入れるためには稽古を続けるということが一番重要になるのです。

では、ミスターが空手を続けていられるのはなぜでしょうか。
もちろん本人が頑張っているというのが一番の理由なんですが、頑張り続けられる環境にいるということが見逃せません。
もし、彼のように半身不随の人間が空手の道場に入門して、他の人と同じ稽古を課されたらどうでしょう。一日、二日はそれこそ「気合」だけで頑張る事もできるでしょうが、それをずっと続けられるものではありません。

それなら、なぜミスターは続けることができたのか?

それはミスターが「無理な稽古はしない(=彼の師範がさせていない)」からです。
しかし、その見極めは非常に難しく、やっている本人にはどこまでが限界かはわかりにくいものです。そこで指導者が本人にできる限界の少し手前まで頑張らせる。そしてそれを繰り返して限界の壁を押し上げるという、誰にでもわかっていそうな単純なことを少しずつ繰り返して行うことで、ミスターは空手を続けることができているのです。

肉体的限界というものは人間である以上、越えられない壁です。
例えば、息を止めて10分動き続けることのできる人はいません。生物的限界と言ってもいいでしょう。
しかし肉体的限界は個人差が大きいとしても、トレーニングによって高めていくことが可能です。それが漸進的トレーニング法と呼ばれるものなのですが、理屈がわかっていてもきちんとそれを行えることのできない人の方が多いのです。
特にまだレベルの低い間は、「普通、これぐらいだったら出来るだろう」という思い込みから離れるのが難しいものです。
ある人にとっては簡単にできることが、別の人にとっては「生物学的に無理」な場合もあるのです。それを指導者側が見落として「こんなこともできないのか、できて当然だ。」という顔をするから、まだそのレベルに到達していない多くの人にとっては、空手の稽古をしていて
自分にはこれ以上無理だ。」と諦めてしまうことになるのです。

上に述べたように、稽古が続けられなくなる理由には「肉体的限界」と「心理的限界」がありますが、一般には心理的限界の方が先にきます。
もう無理だ。」
と諦めてしまう状況です。
その心理的限界を乗り越えて稽古することに、空手道を学ぶ意味があるのです。
つまり稽古は精神力を高めることが目的であると言ってもよいのです。

そして心理的限界を乗り越えて、肉体的限界を押し上げていくからこそ上達していくことができるのです。
その段階を少しずつ踏まずに一気に肉体的限界を越えさせようとすると、心理的部分だけでなく、肉体的に実際「無理」な状況になるのです。

半身不随のミスターが空手を続けることができる理由と、
あまり素質が無いように思える人間が空手で強くなるための秘訣は、まったく同じものです。
少しずつ努力を重ねる。

これ以外にはありえません。


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