スポーツと武道


武道の近代化

 オリンピックが近づいてきたことで新聞などでもそれに関連した記事が多く見受けられるようになってきました。その中で単なるスポーツ礼賛とは違う視点で、武道について述べられている文章を見つけたので紹介しておきます。

 井上 俊 氏(大阪大名誉教授・文化社会学)の書いたもので、武道というものは伝統文化ではなく近代文化に過ぎないという主張です。一見すると武道家にとっては反論したくなるような論旨ですが、中身はきちんとした研究に基づいたものです。考えさせられるところも多くあり、井上氏の主張には耳を傾ける価値があるでしょう。

 今年から中学校で必修化された「武道」については、「日本の伝統と文化を重んじる心や国と郷土を愛する心を育てる」というのは見当外れだ、とまで言い切っています。

 元々、武術や武芸を近代化させる中で「武道」が生まれ、試合ルールが確立されることでスポーツとしての側面を持つことになったのであって、今日の武道では当たり前のようにある「段級制」も近代化の過程で生まれたものであると述べられています。

 人格形成などの教育的価値を強調し、国際化を図ることで近代化を進めてきたのですから、海外で「JUDO」として発展したものが、オリンピックなどで逆輸入される形で日本の柔道に変容を強いるのは、むしろ当然の成り行きでしょう。

 講道館柔道の創始者、嘉納治五郎によって武術の近代化が先導され、剣道、弓道もそれに倣って近代化され、それまでの「」から「」へ呼称を変えることで、人格形成までを含んだ内容として普及を図ったわけです。

 近代化することで「武道」は文明開化の歴史の中で生き残ることができたのですが、武術が武道になることによって、実は近代スポーツにより近づいたという事にもなるのです。

 近年、日本の「武道」としての柔道と、オリンピックなど金メダルを争う「スポーツ」としての柔道が違う、だからオリンピックで勝てないんだという意見をよく耳にします。そこから、試合に勝てるようにルールを研究して、それに沿った練習をもっとするべきだという意見と、いや、本来は武道なのだから目先の試合の為だけに稽古するべきではないという意見の両方が聞かれます。

 実際のところ日本の柔道の趨勢は、既に武道よりもスポーツを重視した体制を取っており、世界的な「JUDO」の中に飲み込まれていると言えます。
(→ 「柔道の黒帯」 及び 「武道の必修化」 参照)

 嘉納治五郎が柔術を柔道として近代化を図った際には武術や武芸の伝統を踏まえていることを強調しており、実は嘉納は柔道にも当身を導入することを考えていたというのは、研究者の間では知られていることです。しかし、その意図を越えて柔道は正に「スポーツ化」し、武術性を失っていったと言えるでしょう。

 記事では、近代性と伝統性の両方を時代や社会の状況に応じて使い分けることができる。そしてこれが武道の強みになっていると指摘しています。

 つまり、現代において武道は、スポーツの近代性を生かしながら伝統的なものの考え方を身に付けることで、躾や礼法までを学ばせることのできるという広い可能性を持っていると言えるのです。

 記事では次のように指摘しています。
「武道には競争型の近代スポーツとは異なる要素も含まれているから、安全性が担保できれば学校で武道を教えることに意味がある。」
つまり近代スポーツと異なる要素があるからこそ、学校教育の中武道を教える価値があるというのです。

 それでは「近代スポーツとは異なる要素」とは何でしょうか。

 学校ですべての生徒を対象に教えるのであれば、「安全」が何より重視されなければならないのは当然です。(→ 武道必修化2) そして、その目的として求められるのは、国が言っているような伝統や文化ではなく、まずは身を守る護身能力だと思います。そして武道を学ぶことによる最終的な目的となるのは、自己陶冶にあるのではないでしょうか。そこで目指されるのは、人との勝ち負けを競わず自分の中での成長に価値を見出して自己肯定感の育成をすることにあり、たとえ上達しなくてもそれをやり続けることに意義を見出す真摯さを身に付けることにあります。

 大体、稽古を続けていれば永遠に上達し続ける、なんてことはあり得ません。もちろん間合いやタイミング、相手との駆け引きなど、経験を重ねることによって上達していく部分はあります。けれど体力的なものも含め、若い時にはできた技が年を取るとできなくなってくるものです。できない事もコツコツやればいつか必ずできるようになるというのもお為ごかしの大ウソです。
 いくらやってもできないことはありますし、やり続けていてもできなくなってくることはあるのです。

 しかし、「続けていてもうまくならないのならやる意味がないというのは、表面上の技術的な事しか見えていないことになります。

武道の稽古は「続ける事自体」に意味があります。
 先人の残してくれた英知を「稽古」して、その上に自分の理解と工夫を加えて試していくことが心の修行となり、更に良いものを目指して続けるというところに精神の向上が表わされるのです。

 もちろん稽古はうまくなることを目標に行うものですが、極端な話、うまくならなくても別に構わないんです。
 コツコツ努力するということを厭わず続ける事ができるのならば、その人は既に素晴らしい資質を身に付けていると言えます。

 戦後すぐの時代は武道のスポーツ化が求められていたようですが、今は武道の役割に競争型の近代スポーツとは違う価値観が求められています。

 単に競技に勝つことが第一義とされるスポーツとは異なり、己の修養の為に行われる武道が注目されているのです。
 現代社会において武道を学ぶ意味は、そこにこそあるのだと思います。


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