セ○○○稽古とは
一見すると激しく見える稽古をやったことで、自分がいい気持ちになって満足するだけであまり効果が見られない稽古のこと。
きちんとした指導者に就かず自分だけで稽古している人によく見られる傾向ですが、ハードで非常に疲れる練習をしていながら、余り効果の上がらない方法で練習をしていることがよくあります。
例えば、息も絶え絶えになりながら必死でミットを蹴っているのだが、フォームはバラバラ、蹴りに体重は乗っていない、ガードも下がりっぱなしでとても組手で通用しない蹴り・・・しんどい思いをしているだけです。
つらい稽古をしているから強くなっているとカン違いしているのです。
同じようなことは指導者側にも言えます。特に大学の体育会などで上級生が下級生の指導に当たる時などにこの傾向がよく見られます。
ただ単に「しんどいだけ」で、まったく上達に繋がらない意味の無い稽古をやらせている場合がホント多い。しんどいことを「やっている」ことで満足し、自分(達)はハードな稽古を「しているからスゴイ」のだと勘違いしているのです。
同じしんどくてツライ稽古をするのならば、上達する稽古をした方がいいのにと思うのは私だけでしょうか。
また、上のレベルになってくると自分が「トップレベル」なのだから、自分より「強い」人の言う事でないと納得して聞けないという人がいます。
甚だしいカン違い・思い上がりです。
特に格闘技系の場合は、バテて動けなくなってから更に追い込んで稽古することがとても重要になってくるのですが、上のレベルになればなるほどハードで厳しい稽古内容が当たり前のことになってくるので、そこから更に自分で自分を追い込むのは難しくなってきます。
自分で限界だと思っていても、他人から追い立てられると更に追い込むことができるというのはよく知られていることです。限界が近くなればなるほど、気が付かないうちに自分に対して甘くなってしまうものなのです。
その限界を乗り越えるのに指導者の必要性があり、指導者が必ずしもその選手より「強い」必要はありません。
指導者に必要なのは、選手に何が必要なのかを見極め、それを課してやることです。
ですからキチンとした指導者に付いていないと、今の自分に何が必要なのかが見えなくなり、セ○○○稽古に陥ってムダな時間と汗を流すことになります。
自分の気付かない部分を教えてくれる指導者に就き、自己満足から一歩踏み出す勇気を持つこと、それがレベルを上げるのにとても重要なことです。
ただ、セ○○○稽古にも利点はあります。
つらい稽古を「やり遂げたという自信」が付くことです。「流した汗はウソを付かない」とはよく言われる言葉ですが、元々この言葉が意味するところは、稽古を積んだ分だけ上達するということです。つまり休まずに稽古を続ける大切さを言ったものですが、ここにさらに精神的な意味合いが付加されてきます。ハードな稽古を積み重ねることによって「これだけつらい稽古を乗り越えたのだから負けるはずがない」と自分に自信が付き、試合中に息が上がって弱気になってしまう時にも、それを乗り越えて動き続けることができるようになるのです。延長に継ぐ延長で動けなくなってしまった時に、折れない気持ちを持ち続けるためには「自分はもっとしんどい稽古を乗り越えてきた」という自信が必要になってくるのです。
また身体能力が高い者は、量の稽古をこなす中で自然と動きのコツを掴んで上達していきます。ですから、セ○○○稽古であっても技術的にもある程度は効果があります。更に上に述べたような精神的効果もプラスされるので、そのやり方で試合に勝ったりするとそれでいいのだという風にへんに納得してしまうのです。
けれど、素質のある者にしても同じ時間を掛けるのならば、指導者からきちんとした指導を受ければもっと上達するのに間違いありません。
素質の無い者はしんどいだけで効果が出ないと、すぐにイヤになってしまうものですが、素質のある者はある程度の成果が得られるだけに、このことになかなか気が付かないのです。もったいないことです。
セ○○○稽古には限界があります。自分はセ○○○で気持ちよくなっているだけだと気付かないとムダにエネルギーを使っていることになります。まさに「セ○○○」。
自分に何が足りないのか、その部分に気付くこと。
それが難しいことなんですけどね。
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