中学生の時に同級生に誘われ、近所の空手道場に通い出したのが始まりである。
その道場の組手スタイルは現在のフルコンタクトルールに近いものの、組織としては
全空連に所属し、寸止めの大会に参加していた。
流派は沖縄空手の系統で、首里手系の
少林流喜屋武派の型を中心に稽古していた。
そこで2年程稽古した後、その道場の師範が独立したのに追随し、その後は伝統派の流派に属することになる。
そこは
糸東流の正派を名乗る流派であり、宗家は初代
渡辺 勝先生(故人)で、伝統派の重鎮として知る人ぞ知る空手界の大御所であった。
渡辺先生は
摩文仁賢和先生が死去するまで師事し、
賢友流の宗家をも務められた方である。渡辺先生には伝統派の型をマンツーマンで御指導いただくこともあった。
伝統派に所属はしていたが普段の稽古では、道場組手といわれる直接打撃の稽古をしており、同時にスーパーセーフ面などを使用して顔面への攻撃も視野に入れた稽古を取り入れていた。
道場では師範代として指導を任され、また、支部長としても後進の育成にも当たっていたが、指導をすることによって基本的な技術を再確認するという効果はあるものの、技術的には教わるものもなく、伝統派の枠の中での技術に疑問を抱き、自分自身の上達にも限界を感じていた。
そこで当時、
極真会館を離れたばかりの
USA大山空手(現、ワールド大山空手)の門を叩き、日本での一期生として白帯からやり直すことにした。
素晴らしい師範と出会い、その指導を受けることによってごまかしのない本物の空手道に触れ、拳の握り方からやり直し、修行を重ねて大阪支部長まで務め、強い選手の育成と組織の発展に努力するも関東の代表者との意見の食い違いから大山空手を退会。
その後、
鳳雛会を興し、現在に至る。
大山空手時代はNYの
大山茂総主、アラバマの
大山泰彦最高師範、シカゴの
三浦美幸主席師範(現、三浦道場)の下へ修行に出掛け、内弟子と共に道場に寝起きしながら直接の指導を受けた。当時の日本においては、アメリカからの内弟子帰りを除いて、
大山空手の指導理念と型を一番よく理解していたのは私であったと自負している。
現在の鳳雛会での稽古スタイルは大山空手時代のものが中心となっているが、伝統派での経験も生かし、そこに自分自身の経験を織り込んだ
オリジナルなものとなっている。
→鳳雛会設立の経緯