基本を得て


型から入って型を棄てよ


それから変化

「型から入って型を棄てよ」
 これは日本画の大家、横山大観が言った言葉ですが、ドラマで大観役をやったことのある中村獅童(歌舞伎役者)氏は、「型を習得し、それを崩すことで自分のやり方が生まれる」のだと、その解釈を述べています。(毎日新聞)

 中村獅童氏は絵の世界で言われていることを歌舞伎に置き換えて、自らの成長に役立てているようですが、空手の世界も同じことが言えると思います。

 ここで勘違いしてならないのは、「型から入って」の部分を軽視してはいけないということです。
 まず型をきちんとこなせるようになってから、次の段階としてそれを応用し、変化させて自分にとって更に良い動きへと昇華させていくべきものです。

 その最初の部分を面倒だからとか、初めから「役に立たない」「意味がない」としてきちんと身に付けもせずいいかげんにしか学ばない人が多いようです。

 獅童氏が言っているのは、まずベースの部分をきちんと身に付けた上で自分に合わせて変化させていく必要があるということであって、自分勝手なやり方を推奨しているわけではありません。
 そして、その変化させていく方向も本来の目的に沿ったものでなければ意味がないのは当然でしょう。

 空手の型でいえば、相手と戦う術理が型の中に凝縮されているのですから、その術の使い方として「型」が変化していくのは許容されるとしても、見栄えのためだけに動きを改変するのは「型」に対する冒涜と言えるのではないでしょうか。

 現在の空手界では、もはや本来の型の原型がハッキリしないほど、各流派によって微妙に(時にはあきれるほど大きく)動きが変わってしまっています。しかし、元々の型の意義からすれば、そこで使われる術理を身に付けるのが最優先であって、師が弟子に伝えていく時にも型が微妙に違っていたということがよくあったようです。

 身長や体重、柔軟性や筋力の違いなどで、使える技や向いていない技などがあるのは当然で、昔の先生は教える型を生徒に合わせて変えるのは普通のことだったのかもしれません。
 また、教わった方も自分の解釈などを加えて型を大きく変化させた人も多かったようです。○○のパッサイとか△△のローハイなどはまさにそれでしょう。

 これなどは冒頭に挙げた「型から入って型を棄てよ」が十分に生かされたものとして、既に伝統的な型として残っているものです。

 サンチンやテンショウなどの基本型においても、基本的意味合いは同じでも稽古している道場によって手の動きが変わったり、歩数が増えたり減ったりしたものもあるようです。

 これも本来の目的のために外形が変化したものと言っていいでしょう。

 とはいえ、空手は東洋の武術として文化遺産的な意味合いも併せ持っているのですから、先人の残した「型」はきちんと伝承していくべきだと思います。
 ただ、それはまだ「型から入って」の部分であって、それを棄ててさらに上のレベルにまで昇華しきれれるほど稽古している人間がどれほどいるのでしょうか。

 まだ「型から入って」いる段階で、その型を充分に消化しきれていないならば、それを勝手に改変するべきではありませんし、もし、そこまで型のレベルを上げることができたのならば、それこそ自分の名を冠した型名を名乗って残していけばよいのではないでしょうか。

 そこまでの自信がないものだから、型名はそのままにして内容をちょっとだけ変えたり、自分で作ったにも関わらず昔から極秘に伝わってきた秘伝の型だ、などと言って伝統の名前を借りて権威付けしたりする人がいるようです。

 そのどちらもが、本来の「型から入って型を棄てよ」の精神から離れたものになっているのではないでしょうか。

 現代の空手を修行する我々は、まず「型から入って」の部分をしっかりとこなしていくことが重要だとは思います。ただ、逆に細かい瑣末なことにこだわって空手本来の重要な術理の部分を忘れないようにもしたいものです。


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