空手と空手道


 審査基準のところでも書きましたが、 空手は強ければ良いというだけのものではありません。(勿論、強いのに越した事はありません。)

 武道とは、「武」の「道」と書くように、一般には武術を修行する事によって精神修養し、人の生きていく「道」を学ぶものです。一部には「強くなくては武道にあらず」といった考え方をしている人たちもいるようですが、空手が相手を倒す技術を高めるためだけのものならば、それは武術の域を出ないものとなります。その修行の過程において精神的に向上していく事で人生の指針にもなりうるものが「武道」と呼ばれるものなのだと思います。

 しかし、数々ある武道の中で、「道」の字が付かなくても同じ種目として受け取られるのは「空手」だけです。

 「剣道」を習っているとは言っても、「剣」を習っているとはあまり言いませんし、「柔術」と「柔道」は別物です。「合気」という言い方はありますが、一般的には「合気道」で一つの言葉になっています。
 ところが「空手道」だけは「空手」だけでも十分に通用します。と言うより、外国などでは「KARATEDO」より「KARATE」だけの方が通りがいいのではないでしょうか。

 このことは空手にはまだ武術的な要素が色濃く残っている証拠だとも言えますが、逆に言えば、まだ武道として確立されていないのだとも言えるのかもしれません。

 武道と武術の違いを考えてみると、その種目のルールが決まっているのが武道で、ルールに関係なく「相手を倒す」ことを最重要に挙げているのが武術だと思います。

 つまり、やっていいこととダメなことが決まっているのが「武道」になるということです。

 武術的に言えば、まず相手を倒さなければ話にならず、そこには卑怯とか正々堂々とかいうような観念は二の次になります。(夜道で暴漢に襲われた場合などはこちらのやり方で対応しなければいけません。)
 武道になると、競技のルール(その武道のスタイルと言った方がいいかもしれません)が決められることで、それに従って稽古を行い、精神的な成長も手に入れようとするものです。
 剣道で言えば攻撃できる部位は決まっていて、竹刀で足を叩いてはいけないし、柔道で言えば、相手を殴ってはいけません。
 決められたルールの中で互いに切磋琢磨し、技量を高め合うことができるからこそ、それを学ぶ者は頑張ろうというヤル気が出てくるわけです。
 例えば、柔道の寝技で押さえ込んだ相手が殴り掛かってきて技から逃げて

「実戦では殴られる場合も想定しておかなければいけない」
などと言っていたら、そんな相手と一緒に稽古を続けたいとは思わないでしょうし、それを認めるような「柔道」なら、誰もそんなものをやりたいとは思わないでしょう。

 公平なルールの下で競い合うことにより、その過程でお互いが精神的にも成長していくことができるものが「武道」と言えるのだと思います。

 その他の種目との差異を明確にするルールがあってこそ、「空手」が「武道」として位置付けられるわけですが、空手界には流派色が色濃く残り、空手界全体を統括する組織がありません。ですから何を以って「空手」とするのかの定義付けも曖昧なところがあります。

 現代においては「突き、蹴り」を主体としたものを空手とし、投げや関節技などは空手の範疇に入らないという見解が大勢を占めているようですが、伝統的な型の中には投げ技や関節技が入っているのは特別なことではありません。伝統派の先生方にも、空手には投げも関節技もあるということで指導に入れている方が多くいるのにもかかわらず、大会における試合のルールで、投げや関節技を取り入れているところはほんの一部に過ぎません。ルールで禁止されているだけにもかかわらず、試合中に相手を掴んだり、投げたりする選手に向かって「空手をしろ!」などというヤジが飛ばされることもよく見受けられる光景です。

 現代の空手が試合の普及によってスポーツ面から発展、拡大していったことから考えれば、柔道や柔術との差異を強調し、独自性を出して発展させていったことは間違いではないと思います。しかし、武術性が色濃く残る「空手」として見た場合、伝統的な型の中に投げや関節技が残されていることからしても、大会ルールで使える技だけを空手の技と限定するのではなく、実際の戦いの場面において活用できる技術も空手の技として残していく必要があるのではないかと考えます。
 また最近では、この「突き、蹴りが空手である」という認識が広まっていることからか、「突き、蹴り」さえすれば空手であるとする考え方が見受けられるように思います。

 中国拳法を発祥として、沖縄の「那覇手」「首里手」などを経て本土に入り、「唐手」から「空手」に変わったこの辺りまでの流れを汲んでいるものが「空手」であると、私は考えています。
 昔の沖縄では今のような稽古体系を持たず、マンツーマンで稽古が行なわれていたようです。そういった一部の限られた人間に秘密裏に伝授されていたものが一般に公開されるようなったことで、多人数の生徒に教える必要性から新たな稽古方法が考案されました。それが現在「伝統的な稽古」として広まっているものです。
 この「伝統的稽古法」とされる、基本稽古から型、約束組手、自由組手という流れを持つ稽古体系こそが空手独自のものではないでしょうか。
 時代の流れもあるのでしょうが、このような伝統的稽古法を、実際の組手において役に立たないものとして切り捨て、より自由組手に近い形で基本稽古を行っている空手団体もありますし、さらには伝統的な「空手」の稽古をほとんどまともにしたこともなく、昨日までリングでキックパンツを穿いてグローブを付けていた人間が、今日から空手着を着て黒帯を締めているというのには非常に違和感を覚えます。

 しかし、そんな広範囲な「空手」をすべて認めるとしても、「武道」として恥ずかしくない活動をしているところもあれば、単に強さだけを求め、教育的な理念がまったくないところもあります。
 アメリカなどではポイント制大会でカラフルな道着に身を包み、アクロバチックな技で人目を引く選手や、音楽に合わせて自分で勝手にアレンジした型を演じる人がたくさんいて、「アメリカンカラテ」等と呼ばれているようです。しかし個人的意見を言わせてもらえば「カラテ」を使わず、全く別の名称を使ってもらいたいくらいです。

 どこまでをひっくるめて「空手」とするのかは、指導する側に立つ先生方のこれからの普及活動と、世間がそれらをどのように受け入れていくのかによるのでしょうが、少なくても教育的指導理念を持たないところは「武道」として「空手」を名乗って欲しくありません。
 鳳雛会としては、「空手」はあくまでも「武道」の一つとして捉えています。人を成長させ、空手を学ぶ人たちの生活に張り合いを持たせるものでなくては意味がないと考えます。

 身体を動かして汗を流し、爽快な気分を味わうというだけでは「武道の稽古」ではなく、単なる「エクササイズ」になってしまいます。そういったエクササイズ的なものが好きな人はそれをやればいいと思います。ただ、そこには武道としての精神性は無いと割り切って行うべきものです。

 身体を動かすこと自体の効果に加えて「武道」としての精神性を持たせることが、「空手道」を成り立たせるための重要な要素であると私は考えます。


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