真理にたどり着く方法論
空手道と仏教
その類似性
空手道は武道として人の生きていく「道」であり、その稽古は真理を求め、悟りを開く為の修行と同じようなものだと別のところでも述べました。
今回はそれをもう少し詳しく述べてみたいと思います。
悟りを開く修行というと宗教的イメージを受けるかと思いますが、稽古を重ねる上で、密教がかった方向に進んでしまう人もけっこういますし、実際に宗教法人を設立して宗教として武道を行なっているところもあります。
宗教というと、ちょっと胡散臭く感じる人も多いかもしれませんが、武道は自らの鍛えた身体で技を駆使するものであり、けっして「念力」のような超能力的な力を発揮するものではないと私は思っています。
昔に流行った「『気』で相手を吹っ飛ばす」なんて事は「絶対にない」と私の師範は仰ってました。私もその通りだと思います。
「気」のようなワケのわからない不思議なパワーで相手を倒せるのなら、何百何千と突き蹴りを繰り返して技を身に付けるなんてバカらしくてやってられないと思います。更に言えば、そんな風な言い回しで生徒を募集し、「ウチの武術を習えば気で相手を倒せる」みたいな事を言っている奴は、コツコツと汗を流して稽古している我々をバカにしているとさえ言えます。
ただ、稽古を重ねた究極の所で、人力の及ばない不思議な体験をしたというのは実際にあるのかもしれません。しかし、それは地道な稽古を重ねに重ねた結果の体験であって、苦しい修行もせずに経験できる事ではないでしょう。
真理を目指すという点で武道と宗教には共通性があると思います。それに稽古を続けていると、目的だけでなく、そこを目指す過程にも似通ったところがあることに気付きました。
それは素質のある者の稽古と、凡人の稽古のやり方の違いです。
例えば、仏教においても空海のような超人的能力を持っていたとされる密教系の宗派では、厳しい修行により空海のような法力を身に着けるのを目指して努力するのですが、浄土真宗のような大乗仏教系においては他力本願、つまり仏の力による救いを信じ、ひたすら念仏を称えるというものです。
空手の修行は厳しいものですから、密教のような激しい修行をする宗派を参考にするべきだと思われるかもしれませんが、実は逆です。意外に思われるかもしれませんが、浄土真宗的な修行の仕方こそ現代の空手道に必要とされているものではないかと思います。
空手を稽古している我々のほとんどは凡人です。試合で勝ち続けてチャンピオンになれる人はほんの一握りで、多くの人は1回勝つのも必死であり、試合で勝ったことがないという人も珍しくありません。
そんな、弱くて勝てない人は空手をやっている意味がないのでしょうか。いいえ、そんな事は絶対にありません。
素質に恵まれ、激しい稽古をしたらどんどん強くなっていける天才肌の人は、密教の厳しい修行で悟りを得られる人であり、我々のように努力しても中々強くなれないと悩んでいる人は、念仏を信じてひたすら名号を称え続けて極楽往生を願う人と同じなのです。
浄土真宗というと念仏を称えるだけで救われる。他力本願で自分は努力しなくてもいいと思っている人が多いようですが、それは一般の人々にキチンと宗派の理念を伝えられていない僧門側の責任です。本来、阿弥陀の本願を信じて念仏し続けるというのはとても厳しい事なのです。
実際、宗祖の親鸞は迫害を受け、流罪となりながらも自分の師の言葉を信じ、念仏をやめなかったそうです。
密教系では激しい苦行を経て、自力で真理へ迫ろうとするのに対して大乗仏教系では仏の導きを信じ、ひたすら念仏を称える事で真理に近付こうとするものです。
空手においても、能力に恵まれ素質に溢れた人は自分からアレコレと工夫した稽古をして上達していきますが、一般の多くの人はそんな高い能力を持っていないので、先人の残した空手の理を学び、それを信じて稽古することで上達していくのです。
仏教でも同様に、厳しい修行のできないほとんどの一般民衆は、自らの能力でできる念仏を称え続ける事で極楽往生を願うのであり、そこに新たな別の修行を加える必要はありません。
だから現在の日本で最大の信者数を抱えるのは(東西を合わせた)浄土真宗であり、古来からの密教系や新興宗教でも個人の激しい修行を必要とするものはそれほど大きな勢力へと発展しないのです。
もちろん自らの力で道を切り開いていこうとする人を否定するわけではありませんが、浄土真宗がひたすら仏の力を信じ、その教えを忠実に守り続けるように、個人の力では中々上達できない普通の人が空手で強くなろうと思うなら、自らの師と流祖を信じ、伝えられた技法をしっかり学ぶことが、一番確実な上達方法なのではないでしょうか。