柔道の黒帯


武道とスポーツの違いについて
以前に柔道の有段者の方と話をしている時、次のような不満を聞かされたことがあります。

その人はある柔道クラブで指導している方なのですが、中学生くらいの子供が試合で勝ちたいというので、メニューを組んで試合で使える技を練習させていたところ、月に一回しか顔を出さないようなオジイがやって来て
そんな練習はせんでエエ!
と言って違うことをやらせる。

自分はずっとその子の練習を見ていて、試合で勝てるようにと使える技を教えているのに・・・。年寄りは考え方が古くて困る、それまでその子を全然見ていないのに、そんなやり方ではなかなか試合に勝てないではないか。

そんな内容の批判でした。

こんなことはどのスポーツの世界にもあって、大きな大会の直前になるとやってきて独りよがりの練習をさせ、みんなの調子を落として帰っていくOBみたいなのがいるものです。

しかし、この場合は少し違うと思います。おそらく、その年取った柔道家と若い指導員とでは目指しているものが違うのです。

古くからの指導者は武道本来の目的に則って稽古する場合が多く、稽古をしっかりとやることで一つの技をじっくりと覚えることや、それによって身につける精神力の方が大事で、試合の結果は二の次と考える方が多いようです。

そして、そうやって本道に沿って稽古を積んで行けば自然と試合でも勝てるようになると考えています。

ところが若い指導者達は試合の現場に近く、最短距離で勝つための練習をしようとします。つまり勝てる技を身に付けるのを優先するのです。

なぜなら学校のクラブなどで柔道をやっている者に取っては、「今」試合に勝てることが最優先であり、学校を卒業した後にいくら強くなったとしても、そんなことは関係ないからです。

つまり学校のクラブなどで柔道をやっている者は、「スポーツ」としてやっているのに過ぎず、その種目がたまたま武道」と呼ばれるカテゴリーに含まれていただけで、「武道」であるからという理由で柔道を選んだわけではないのです。

少し乱暴な言い方ですが、スポーツと武道の違いを端的に言うと

「試合」で勝てる練習をするのがスポーツであり
「道」を歩む稽古を行なうのが武道

と言えるのではないでしょうか。

武道的に言えば、目の前の試合に勝てるかどうかはどうでもいいことです。
それを学ぶことで人格を陶冶し、武術を手段として修行することで、 人としての生きる道を歩いて行くから武道と呼ばれるのです。

もちろんスポーツにも同じような効用は有ります。スポーツをすることでフェアプレイの精神を学んだり、諦めずに努力することの大切さを学ぶことが出来ます。

しかし、スポーツがゲームで相手との競争に勝つことを目的としてしているのと較べれば、武道では人間性を高めていくことの方が重要視されています。

ところが柔道があまりに一般に普及した事によってスポーツ化し、試合での勝ち負けが第一義になってしまっているのです。

例えば、柔道はオリンピックの種目ですが、世界の「JUDO」と日本の「柔道」は違うと言われています。青色道着が導入されたのも観客からの見栄えやわかりやすさを重視した結果であってTV放映などでスポンサーが付きやすいという理由からです。
技を取る基準さえもが日本とは異なっているというのは、もはや常識となっています。オリンピックのアテネ大会では誤審騒ぎを起こしましたし、北京大会では勝つことに固執して批判を浴びながら代表枠を獲得した選手が、本番で金メダルを獲得するという快挙?を成し遂げたことで有名になりましたから、記憶に残っている人も多いでしょう。

本来、柔道着や空手着は白い道着に身を包むことに意味があります。
武道は神道の影響もあり、神前で禊の儀式を営む時に色物を身に付けないのと同じ理由から、俗世の雑事に囚われず修行を行うときの道衣として白の道着が使われるのです。

ですからブラジルから逆輸入された形の「柔術」(ブラジリアン柔術)では道着にスポンサー名の入ったパッチをベタベタと張り付けていても、逆にそれが「カッコいい」と見られており、誰も文句を言う人はいません。
「道」は付いていないんですから何の問題もありません。

最近では段位の発行権限さえも海外の連盟に認めよという動議が出されているそうです。もしそんなことが認められれば、柔道は武道ではなくなってしまうと言っても言い過ぎではないでしょう。
段位を取り、黒帯を締めるというのは、家元にその道の認可を受けるということです。単にスポーツとしての強さだけを求め、勝ち負けだけを問題にするのならば黒帯を締める必要はありません。極端な話、白帯のままでオリンピックに出て金メダルを取ったって構わないわけです。実際、海外の選手は柔道着を着たレスリング選手みたいなのが多いです。もちろん他のスポーツの良いところを吸収するのはいいとしても、タックルブレーンバスターみたいな投げで一本を取るのは「柔道」としてはどうなのかなと思います。
黒帯を締めるということはその道の技術、思想までを含めて一定以上のレベルにあることの証明です。単に強さだけにこだわるのならば、その年の世界チャンピオンが十段で、毎年それが入れ替わるようにしたっていいわけです。

一度取った段位は下がることはありません。高段位を取得するということは、同時に内面もそれに値するだけのレベルになったと考えられています。「強さ」は肉体的、外面的なものですから、年を取ったりして肉体的強さが衰えたからといっても、精神性が下がるというふうには考えないからです。

段位は単に強さだけで決まるものではありません。それまでの積み重ねられた稽古を評価する事や、斯界に於いて果たした功績などの評価も含めて段位が上がるものなのです。

ですから組手においてどんなに強くても、20才の若者が八段になっているということはありえません。空手の昇段審査では、初段は十人組手、二段は二十人組手という形で行っているところが多いのですが、100人組手を完遂できたら十段になるかというと、決してそんなことはないのです。

ところが現在の柔道における昇段審査では、3人抜きをすれば昇段が認められます。対戦相手は審査を受けに来た者同士で組まれるので、受験者全員が一緒に合格!ということはシステム的にありえません
たまたま当たった相手がどんなに強くても、逆に弱くても関係ないのです。強い相手と当たった時は運が悪かったと思って、次の審査まで待たなくてなりません。
反対に、たまたま弱いヤツがたくさん受けにきていたら、簡単に3人抜いて、更に5人抜きまで出来てしまえばそれで二段が認可されます。

これは武道の「武」の部分の重視であり、弱くては「武」として成り立たないという考え方からきているため、ある面、仕方のないところなのかもしれません。しかし、現在は武道が社会教育の一つとして考えられているところからすると、歪みがあると言えるものでしょう。
つまり、普段の練習でどんなに頑張ったとしても、審査で当たった相手より相対的に強くないと黒帯にはなれないということと、当たる相手次第という「運」がとても大きな要素になるということは、努力の価値が認められないと言えるからです。

もちろん武道としての絶対的「強さ」は必要ですし、勝負事というものは最終的には運によって結果が左右されることが非常に多くあります。
しかし、「武道」として社会から要求されるもっとも重要なことは、努力したことが必ず評価されなければならないことだと思います。
上のレベルになるほど、「天賦の才能」と「」の影響は大きくなってくるものですが、実践者としてその武道の入り口にいるものにとっては、「努力」が最大限に評価されるべきです。

黒帯を取るという、その世界へ深く入っていく最初の段階で、柔道は大きな矛盾を抱えていると言えます。

出発点にそういった「実力主義」的なところから始まっているのだから、それが世界に広まった時に都合のいい部分にだけ「武道主義」を持ち出しても通用しないのは当然かもしれません。

今や世界的に見れば「柔道」はすでに「JUDO」というスポーツに過ぎません

スポーツで一番の目標にされるのは「いかに相手に勝つか」であって、それによって得られる精神的な向上は二の次なのです。
まったく必要ないと言っているわけではありません

上でスポーツと武道の違いを

勝てる練習をするのがスポーツで、
「道」を歩む稽古を行なうのが武道だ

と書きましたが、

極端に言えば「JUDO」で勝つためには受身の稽古はしなくていいんです。
なぜなら試合に勝つのに「投げられる練習は必要ない」からです。
試合では、いかに受身を取らなくて済むように投げられるかが大事であって、投げられたとき身を守る為に受身を取ることは、その時点で一本取られての「負け」を意味しているのです。

オリンピックという世界最高峰の試合でも、完全に投げられているのに体を捻って倒れ込み、背中が畳みに付かないようにして一本から逃れようと、無様な姿をさらしている選手ばかりです。

「受身」は柔道の基本中の基本で、自分の身を守る重要な技です。ところが世界最高の柔道家が集まっているはずなのに、誰一人として投げられた時に「きれいな受身」を取ることができないのです。
オリンピックで金メダルを取るのに「受身」は必要ありません。試合中に「きれいな受身」を取った瞬間、すべてが終わっているのですから。
最後の最後まで一度も「きれいな受身」をしなかった者が金メダルを獲得できるのです。
試合中に受身を取らないようにと無理な形で手を着いて、腕を骨折している柔道家のなんと多いことか。

倒れて手を着いて骨折するなんて、ヨボヨボの年寄りじゃあるまいし。

危険な倒れ方をする前に受身を取るというのが柔道の基本であるはずです。
そういった動作が無意識に出来るようになるのが稽古なはずです。

ところが試合で勝つための練習ばかりしていると、その動きが体に沁み付き、無意識に出るようになります。
ということは普段の生活中でも、とっさの時に無理な形で手を着いてしまう可能性が大きいということです。

倒れたときに「受身」を取らないようにする稽古。

それで「柔道」と言えるのでしょうか。

スポーツ「JUDO」と、武道の「柔道」は分けて考えなくてはなりません。ところが日本にはそれが両方存在するために、混同され、誤解されるのです。

個人的意見ですが、オリンピックで競技種目になっているものは「JU」にしてしまったらどうでしょうか。
スポーツで優劣を決めるのに武道性は関係ないんですから「do」の部分はいらないと思います。
黒帯とか段位も関係なくランキング形式にして、道着も色だけでなく形もどんどん変わっていっていいと思います。
実際、道着を着ていることを除けばレスリングと技術的にどう違うのかわからなくなっているのですから。

そしてスポーツ競技ではない部分で「柔道」を行えばいいんです。
勝ち負けだけではない「こころ」の部分を重視した武道として残すにはそれくらいしないとダメだと思います。



実際、2009年からは柔道もランキング制が取り入れられるということですから、柔道に於いて段位の重要性はさらに下がっていくかもしれません。
しかし、考えてみてください。それならば何故、海外の柔道連盟が黒帯の発行権を求めてくるのかを。外国の人からすれば、わかりやすいルールの元に柔道をJUDOとしてスポーツ化して自らのものにすると同時に、「武道性」にも強い魅力を感じているということです。それなのに本家の日本が武道性を忘れ、スポーツの方に偏ってしまっては世界に対して誇れるものを自ら捨て去ってしまうことになりかねないのではないでしょうか。



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