身体的限界
動体視力
武道としての取り組み
動体視力とは、広辞苑では「動体を見分ける能力」(広辞苑)とあり、もう少し詳しい言い方を見ると、ウィキペディアには「動いている物体を視線を外さずに持続して識別する能力を動体視力と呼ぶ」と書かれています。
最近はシニア世代ながらも大会に出続けている選手が多く、そういった選手と話をしていると「『動体視力』が衰えたから蹴りが見えなくなった」といった話題がよく出てきます。
一見、なるほど、とも思えますが、動体視力という言葉の使い方としては正しいものではありません。
動体視力というのは動いているものを捉える視力のことですが、空手における突き、蹴りの動きは若くて目がいいからといってよけれるものではないからです。
実際に目で見て、頭で判断して、その対応に身体を動かすまでには神経伝達速度の限界があるのでけっこう時間が掛かり、目で見てから受けに入っても防御には間に合わないのです。
相手の攻撃を受ける時は、その手先足先を見て受けているのではありません。相手全体を見て体勢や動きの中で来る技を予想して受けるわけです。ですから動体視力が少しくらい衰えたといってもそれほど影響はないのです。
ボクシングなどで「目がいい」という言い方をよくしますが、その意味するところは、単に動きがよく見えるというだけではなく、相手のパンチをギリギリでかわすことができるという事です。もちろん目をつぶったままではできるわけありませんが、見えていたとしてもそれに反応して動くことができなければ話になりません。
つまり、技をもらってしまうのは動体視力の衰えとは関係ないのです。
だから、いくら動体視力が良くても技を喰らうこともあります。それは技が見えていないわけではなく、技の軌道が読めていないせいです。
自分が予想もしていない角度やタイミングで技が来ると、それに対する反応が遅れて受けきれず、技をもらってしまうことになります。
逆に言えば、上級者ほどそういったフェイントや捨て技を巧みに使い、互いの技の駆け引きで攻防を行い、技術の優劣を競う組手をするようになってきます。
けれど、決まった時間の中で勝敗を付ける試合においては、若さに任せたラッシュの手数やパワーで相手を押し下げることで勝ち負けが決まってしまいます。競技として、ルールの下で競うという特性上、そういった選手が勝ち上がるのは、ある意味、仕方ないことでしょう。
ですから試合で使える技は空手の中のごく一部に過ぎず、試合で勝ったことでそのまま空手のすべてが優れているとは言えないのです。
年を取ると確かに視力は衰えてきます。
動体視力もそれに伴って衰えてくるのは確かですが、今まで受けることのできていた技をもらったりするようになるのは、動きに反応する能力が衰えているのであって、「動体視力」そのものの衰えとは関係ありません。
思うに、
「技に対する反応が遅れている」=「試合で使える組手技術が衰えている」
というのを受け入れる事ができず、それを年齢による視力低下のせいにしてしまっているのでしょう。
身体能力が年齢によって低下するのは避けられないので、それは仕方ないのだと自分に言い訳ができるのです。
結果は一緒なんですけどね。
肉体的能力の衰えは素直に受け入れた上で、試合という枠の中で発揮できる能力もそれに伴って落ちてきているということをキチンと認識できるようになることが、自らの「空手」を高めることになると気付かなければならないと思います。
若くて体が動く時期には、その時期にしなければならない稽古があり、それは身体的にハードなものになります。
それを初めから避けて、必要無いなどというのは単なる逃げに過ぎませんが、逆にいつまでもそれにこだわった稽古ばかりしていても「空手道」としての上達はありません。
空手を「武道」として捉え、生涯を通じて歩み続けることのできる「道」として考えるならば、試合の結果ばかりにこだわらず、様々な角度から空手の持つ深遠な技術や精神に触れていって欲しいものです。