法の下の平等?


自分の身は自分で守れ
人はそれぞれが掛け替えのないものであり、そこに人間としての上下がないというのは、倫理的には正しいかもしれませんが、テレビで放送される凶悪犯罪の裁判のニュースを見ていて、悪人の方が保護されているのではないかと、疑問に思ったことはないでしょうか。
今の日本の法律では、殺人を犯しても「心神喪失」だと罪に問われません。それどころか故意で人を殺害しても、日本では被害者が複数でないと、まず死刑判決は下らないのです。
(死刑適用基準として「複数殺人は死刑」という裁判上の実務の大勢がある。その根拠として、最高裁で示された「永山基準」 による 「死刑になるのは犠牲者が複数である事」というものが用いられている。)

つまり殺された被害者の命と、殺した加害者の命の重さは平等ではないということです。
世界的には死刑を廃止している国も多く、たとえ殺人犯であっても「死刑」という形で人が人の命を奪っていいのか、という意見はあってもいいと思います。

しかし被害者の立場になったとしたら、それで納得できるかどうかは別問題です。自分や身内が被害者となっても加害者が法で裁かれないのだとしたら、どう対処すればよいのでしょうか。

それは、
自分の身は自分で守るしかない。

のです。

すべての人が「法の下に平等」で、犯罪を犯せば法律によって裁かれるものだと思っている人が多いようですが、実際にはそうなっていません

車で人を轢いても、逃げて捕まらなければいいと思っているような種類の人間が大勢いるのです。その上、捕まって裁判に掛けられても加害者にも人権があるとかで逆に保護され、心神喪失を主張して認められたら罪に問われることありません。普通に裁判が進んでも、判決では被害者の意識からすればあまりにも軽すぎるとしか思えない刑罰しか課されません。

自分の身は自分で守るしかありません。日本は法治国家だから悪い人は警察が捕まえてくれるだなんて思っていませんか。最終的に悪い奴が捕まることがあったとしても、現場で被害に遭うことからは逃れられないのです。しかも、日本の警察は世界一の検挙率を誇ると言われた時代もありましたが、最近はどんどん検挙率も下がっています。年間に何十件もの事件が時効を迎え、被害者が泣き寝入りしています。
(99〜08年の10年間に時効を迎えた殺人事件は508件に上ります。傷害や暴行、警察に届けられていない数まで含めるといったいどれくらいの被害者が泣き寝入りしているのでしょうか。)

あまりにも犯人を捕まえられなくなったので、時効までの期間が延長されるようになりました。しかし、だからといって被害者の苦しみがなくなるわけではないのです。

強くなって下さい
法律で守られる社会が理想的ですが、暴力行為が行われる現場では誰もあなたを守ってくれません

子どもに空手を習わせると暴力的になると思っている人もいるようですが、肉体的に強くなることは子どもの世界でも必要なことです。肉体的強さの裏付けがあるとイジメの対象にもなりにくいのです。

殴られたら殴り返すというは社会の中では通用しませんが、殴り返せるだけの力を持っているというのは、無用な暴力から身を守るためにはとても重要なことなのです。

殴られても後でちゃんと言えばいい、なんていうのは子どもを被害者になるように育てているようなものです。暴力行為に対してはその場で対応できなければならないのです。

強くなって自分を守る。そして、できるならば自分の回りの人を助けることができるまで強くなってほしいと思います。つまり強さが人を守る優しさになるのです。

自分が強くなくては人を守ることはできません。強くないということは、人を守れないということです。人を守ってやれないということは、結局、優しくないということではないでしょうか。

強くなってほしいというのは、優しくなってほしいということなのです。けっして暴力的に強くなるということではありません。


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