ジャーナリストとして活躍されている
中条一雄氏のインタビュー記事が毎日新聞の特集で掲載されていました。
「発展とはなんだろう」という題で、プロスポーツとアマチュアの違い、スポーツとしてのあるべき姿について述べられています。
武道とスポーツでは明らかに違う部分がありますが、
プロとアマの違いについては武道においても非常に有益な面があるので、それらについて意見を述べてみたいと思います。
鳳雛会では
空手を武道として捉え、単なる
スポーツとは違うという観点で指導しています。けれども
武道の中にもスポーツ的な面があることは否定しておらず、逆にスポーツとしての良い部分を前面に押し出した方が、
武道としてもよい結果を生む場合があると考え、競技に参加することにも力を入れています。
しかし、プロとアマの違いをよく考えることによって、自分が
空手を行っていく上での方向性が見えてくるように思います。
記事の中で中条氏は、スポーツ界の実情は
商業主義に毒されていると書いています。目先の金銭や名誉欲に高校生までが捉われてしまっていることで、
アマがプロ化しているのだと言っているのです。
文中で元国際オリンピック委員会会長であるブランデージの言葉が引用されています。
「プロはスポーツの形式を借りたビジネスである」
この言葉は空手の世界でも同様に言い替えることができます。
しかし、
ビジネスとして行なわれる空手が
武道と言えるのでしょうか。
空手を専業としてやっているということは、それを自分の
生活の糧にしているわけで、つまりは
ビジネスにしているということです。よほどのお金持ちであれば、お金の心配をせずに空手の修行だけをしていることができますが、ほとんどの人は仕事をしながら空手の稽古を続けています。
ある程度自分のレベルが上がって、
指導する側に回ったとしてもそれは同じで、専属で教えることを仕事としている人よりも、
仕事の合間を工夫して子供や後進の指導に時間を作っている人の方がはるかに多いものです。
けれど、習いに来ている人が会費を納めているとしても、このような人たちを
「プロ」と見做してよいものでしょうか。
ここで言う
プロという概念(professional)は、単にその種目を専門的に習熟している(
expert)という意味ではありません。それによって
お金を得ているという考え方です。(←→
amateur)
またプロにも二種類あって、
試合を観客に観せることでお金を取るプロと、
指導することでお金を取る、いわゆる
レッスンプロがあります。
観せるプロはいわゆる
芸能の分野に属し、空手で言えば「K−1」などがその代表になります。この場合、いくら出場する選手が
個人的に求道的な人であったとしても、
興業のイベントとして行なっている限り、それは
武道ではありません。なぜなら興業として開催されるものは
観客がいなくては成り立たないからです。
観客からの評価を目的にするものが、武道であるはずがないのです。
記事中に、
「今は高校生までが芸人のようになり、頼まれもしないのに『みんなに勇気を与えるために』などと言っている。」ありますが、このことを
奇異に思わない人はスポーツの
プロ化に毒されていると言っていいでしょう。
アマチュアが観る人の事を意識している時点で、それはプロ化しているのです。アマチュアはもちろん、武道としてやっているならば、「観る人に勇気を!」なんて言う前に、
自分が一生懸命にやっていればいいんです。
試合を見た人が勇気をもらったり、励まされることがあったとしても、それは行う側の目的としてやることではありません。
結果としてそうなったというだけです。
この観せるプロに対して、指導することでお金を取るのを生業としている人をレッスンプロと言います。いわゆる
インストラクターとしてのプロです。この場合はレッスンを受ける側がお客さんとなります。
武道を習う場合に、この点で他の習い事と混同してしまう人がいて、
お金を払っているから自分はお客だ、だから
自分の方がエライというような感覚を持つ人がいますが、それは
間違いです。その感覚から離れられないのなら
武道を習う必要はありません。自分をお客さんとして扱ってくれる他の種目を習えばよいのです。
空手の場合にももちろん費用が必要となりますが、これはあくまでも組織を運営するための会費や師範に対しての謝礼としてであり、
道場生はお客さまではありません。
空手を指導することで生計を立てている人もいますが、道場生を単にお金を払ってくれる相手だと見ていると、武道としてはおかしなことになります。
お金は集めているが、武道としてキチンと指導しているという所もありますから、要は
その内容と掛かる費用とのバランスです。
「自分のところは武道だ!」と、いくら大きな声で言っても、お金を集めることを優先してしまうと、
それは武道ではなくなります。
先のブランデージの言葉を借りれば、
「空手の形式を借りたビジネスはプロ」ということです。
記事の中で、「スポーツは人生を幸福にする刺し身のツマみたいなもの」だから、スポーツが主食になっているのはおかしいと書かれています。しかし、武道の場合はそれが
「人生の主食」になってもかまわないものです。
スポーツに生涯を掛けると、プロになれなかったり試合に負けたりすると、
「人生の落伍者」となってしまうわけです。けれど、
武道の場合は、それを
行なっていること自体が
人生の道を歩んでいくことです。だから、アマチュアとしてのスポーツ同様に、たとえ砂漠の真ん中で一人でやっていたとしても構わないものです。
ただ、スポーツは
本来、楽しみ、気晴らしとして行なわれるものですから、極端に言えば
楽しければそれでいいのかもしれません。けれど武道の場合、それでは
不十分です。
アマチュアスポーツでは認められることの多い、勝ったという結果から得られる
名誉欲でさえも
武道には必要とされていません。
スポーツ的には
試合に勝つことが第一義となりますが、武道の場合、
勝つ相手は自分自身です。もちろん実際の戦いで、負けは即、死を意味しますから、戦いから発展した武道で
負けていいワケがありません。けれど、負けて死ぬ時にも潔く、それを受け入れる
心の修行を行なっていなければならないのが
武道なのだと思います。
その心境に至るのは、ほとんど
悟りを得るのにも近いものです。ほとんどの人は中々その境地にまで達することはできません。しかし、
それを目指して行うのが
武道なのです。
だからこそ、戦いの一部を抜き出してルール化したに過ぎない
試合での勝ち負けに、
一喜一憂するのは意味の無いことなのです。
その意味で、武道の試合で勝ち負けを気にするのは間違っていると言えます。
もちろん試合をするにあたっては
勝つことを目指して全力で取り組むべきです。けれど、あくまでも試合は武道の一部分を
「試す」場に過ぎません。試した結果がダメだったらそれを
訂正すればよいのです。それを行う事こそが
試合の目的だとも言えるのですから。
スポーツの発展によって、行う人たちの意識が
アマチュアからプロ化へと進み、スポーツが大衆化したことで、それが
出世や金儲けの手段となってしまいました。
翻って武道では、たとえ先に述べたレッスンプロとしての形でプロ化したとしても、
スポーツとは違う価値観を持つものですから、本来の目的へ向かって発展していくことは可能だと思います。
しかし、
出世や金儲けの手段となった時点で、それは
武道とは言えなくなくなってしまいます。
武道を志す人間は、スポーツとの違いをキチンと理解して稽古するべきであり、それが
武道を発展させていくことに繋がってゆくものだと思います。