敗戦の経験


試合に出る意味
今までに出た全ての試合で一度も負けたことが無い、などという人がいるでしょうか。相当な天才的才能の持ち主であっても何度かの敗北を経験し、そこから新たに学ぶことがあって上達、進歩してきたのではないでしょうか。
いや、そうに違いありません。
一度もやられたことがないと言う人がいたとしたら、私はその人のことを信用しません。そんな人はキチンと自分のレベルにあった試合に出たことがないのでしょう。

大人が小学生の部に出て勝ったとしても、何の自慢にもならないのと同じです。

空手をやっている人の中には試合に出たことが無いという人も意外に多くいます。
試合目的で空手を初めたのではないという人もいますし、自分が試合に出るなんてまだ無理だと考えている人もたくさんいます。
そして試合に出た経験があったとしても、ほとんどの人は勝った数より負けた回数の方が多いものです。

試合に出ても勝つことができないと、
「試合になんか出てもおもしろくない」
「試合で得るものがあるのは勝てる人達だけだ」

などと思い、試合に出るのを嫌がるようになってしまいます。

大会への出場を勧めても
「もうちょっと強くなってから出ます。」とか、
勝てるようになったら出ます。」と言うのがいます。

一見、自分の実力をよく知った上での謙虚な態度に見えるかもしれませんが、そんなことはありません。
単に試合に出て負けるのがコワイだけなのです。

だいたい「勝てるようになったら」なんていつの話なんでしょうか。
「絶対勝てる」という状況なんてあるはずありません。「絶対に」勝てる自信があるんだったら、もう既にその試合には出なくていいレベルに到達しているということです。

優勝できるくらい稽古を積んだという自信を持って試合に出るのはいいと思います。しかしそんな場合でも負ける場合があります。だからこそ試合は価値があるのです。

試合に一度も出ずに、試合を超越できるレベルにまで到達できるわけがありません。
試合は負けるかもしれないから出るものなんです。その時点での自分の実力を、相手と「試し合う」から試合なのです。

「絶対勝てる」という状況?
例えば小学校6年の子が「幼児年少の部」に出場。

「絶対」勝てますよね。

でも、それで勝って何か意味があるんでしょうか?

ちょっと極端な例かもしれませんが、同じようなことをしている選手や指導者がいることに驚かされます。

出場クラスに体重をごまかしてエントリーさせる
入賞経験をごまかして有利な組み合わせを目論む選手
黒帯を取っていながら色帯を締めて段外の部に出る選手、出させる指導者

自流の黒帯に対してプライドはないのでしょうか。「情けない」としか言いようがありません。
すべては試合の結果を第一に考えるところに間違いの原因があります。

試合で勝ったという結果だけに意味なんかありません。
試合はまず出るところから意味があるのです。

もちろん試合に出るのには出場費も掛かるし、朝早くから会場入りしても自分の試合を待つ時間が長く、一回戦で負けてしまったのに大会で休日が丸一日つぶれてしまう、ということもよくあります。
負けるかもしれない試合に出るために、そんな時間とお金を使うのはもったいないと考えるのは一般的には正しいことのように思えるかもしれません。

しかし、試合に出ることによって得られるものはとても大きく、お金や時間に代えられるものではありません
大会で優勝することはすばらしいことですが、その重要性から言えば、負けることから得られることの方が遥かに大きなものです。

ただし試合に出るからには勝つことを目指さなければいけません。やる前から「負けてもいい」なんていう考え方は、しんどい事やつらい事からの「逃げ」です。勝つために必死で稽古しなければいけません。

けれど試合で勝てなかったらダメだというわけではないのです。

ちょっと矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、そんなことはありません。
勝つことを目指して「努力する」のが大事なことで、その「結果」はどちらでもいいんです。
もちろん「勝った」という結果はすばらしいことではありますけどね。


では、大会に出ることが空手の修行においてどういう役割を果たすのかを考えてみましょう。

まず、一つには自分がしてきた稽古の成果を試す場であるということです。空手の世界は実証できなければ意味の無い世界ですから、理論や理屈だけで強くなったつもりにならないためにも、他人と実際に叩き合うことで自分のレベルを知るのは必要なことだと思います。

次に、試合に出ることで精神的に強くなれることです。誰でも試合に出るのには緊張するものです。少年部だけの小さな大会であっても、出場する子供たちの緊張は、全日本大会に出る選手のそれと変わるものではありません。
その緊張を乗り越えて試合場に立ったことだけでも精神的に強くなっているのです。

レベルが上がってくると、次には試合中の精神状態を冷静に保つことが求められます。もちろん試合ですからエキサイトする部分はありますし、「闘志を燃やす」気持ちは大切です。ところが度を越すと、いわゆる「上がって」しまって自分がどんな技を出しているのかということさえもわからなくなってしまいます。必死ですから無意識に反則行為を犯したりすることもよくあります。
試合中の興奮した状態であっても冷静に相手の動きを見ることと、自らも反則を犯さないようにするといった心の落ち着きが必要とされます。

さらに上のレベルになってくると、自分より強い相手と当たった時に試合を諦めない気持ちが大事になってきます。いわゆる「折れない心」を持つということです。

一般的にはこの「折れない心」を持つことが、試合の中での精神力の強さだと言う場合が多いのですが、実はこの「折れない心」を持つだけでは空手の稽古としてはまだ中級です。
負けそうになっても、試合が終わる最後まで勝つことを諦めず、戦い続けるのが「折れない心」ですが、これより更に一つ上のレベルがあります。

それは『勝つ相手は「自分」だということです。

対戦相手と明らかな実力差があったとしても、「これだけ力の差があったら負けてもしかたないな」と考えて勝つことを諦め、自分に負けてしまうことの方が圧倒的に多いのです。外から見たら実力差があるので「対戦相手に負けた」のと、「自分で諦めている」のとは見分けがつかない場合も多いです。けれどよく見ていたら分かります。諦めるヤツは、負ける理由を見つけて自分で納得していることが。

「こんな理由があるから負けても仕方ないんだ」と考えている選手の戦いぶりは見ていて覇気がありません。自分を信じて戦う選手は圧倒的不利な状況の中でも自分のベストを尽くしています。
勝つことを諦めたヤツは全力を尽くすことを止めてしまい、そこそこやっているように見せかけて試合終了の太鼓を待っているのです。

つまり試合で相手に負けているのと同時に、自分に負けているのです。

しかし、最後まで試合に勝ちたいという気持ちを持ち続けることは大切ですが、「試合に勝ちたい」というのが、「相手に負けたくない」というレベルに止まっている間は、対象が自分の外側にあるものですから、結果は相手によっていろいろと変化することになります。

つまり自分の状態が同じであっても、相手の強さによって勝ち負けが変わってくるということです。
当たり前に聞こえるかもしれませんが、精神修行の点で言えばここが重要なポイントです。
相手に勝ったとしても全力を尽くしていなければ自分の稽古にはなりません。逆に、たとえ試合に負けても、その中で自分自身に打ち克つ気持ちを持ち続けていられたら、それは敗戦した結果よりもずっとすばらしいことで、意味のあることだと言えます。

このことを忘れると、卑怯な手を使ってでも勝てばいいんだという考え方に陥ってしまい、精神的には逆にレベルが下がることになってしまいます。

対人での競技は自分の出来だけでは結果が現れてきません。自分の調子が最高に良くても相手の方が更に強い場合があります。逆に自分は不調であっても相手がもっとダメな場合もあります。
試合は対戦相手に勝つことを目的としています。しかし、空手は単に「勝てればよい」のではありません。試合に到る稽古の中で自分自身に打ち勝った上で、試合において相手にも勝たなくてはならないのですから、試合の無い種目よりも厳しいところがあります。

ところが、残念ながら試合に勝ってチャンピオンにまでなっていながら、自分自身に勝つことができていない人もいます。大きな大会の優勝者ともなれば精神的にも優れている場合が多いのですが、たまーに肉体的に優れていることや、試合の組み合わせのおかげで勝ってしまっている人もいるのです。
これはルールに則った「試合」という形で競っている以上、仕方のないことなのかもしれません。しかし空手を「武道」として学ぼうという人にとっては、それでいいわけがありません。
たとえ負ける場合があったとしても、正々堂々と戦うことが求められるのは、武道の目的が「試合に勝つ」ことにはなく、「己れに克つ」ことにあるからです。

敗戦から学ぶことがとてもたくさんあるにもかかわらず、勝つことだけにこだわり、そして試合に勝ってしまうと、結果オーライで反省する機会を失ってしまいます。けれど試合で負けたことによって、次には勝とうと努力するようになるのです。

試合という場で勝つという結果を生むためには、まずは自分の身体の状態がよくなければなりません。
全日本大会は通常年に一回の開催ですから、今年の大会が終わった時点で来年の大会へ向けて準備が始まります。
長期のスパンで身体を作り、コンディションを整え、身体が最高の状態で大会当日を迎えるのがベストなんですが、「身体のコンディションを整える」ということが年を取ってくるほど難しくなってきます。
若い間は少しくらいハードに稽古しても、腹いっぱい食ってたっぷり寝たらあっという間に回復します。しかし、年を取るに従って回復力が衰えてきます。ケガをしても治りが遅くなってきます。ですから大会の日程に合わせてキチンとトレーニングのプログラムを組み、それを確実に消化していくことが必要とされてきます。このように、常に先を意識して毎日の稽古に励むことが精神力を強く鍛えるのです。

かなり先の試合に目標を決めて長期間の稽古を続けていると、途中で手を抜きたくなる時もあります。試合までの期間が長いほど「まだ時間がある」という思いが出てくるものです。しかし、それを乗り越えてコツコツと稽古を続けるところに精神的な成長があるのです。

大会の結果だけを見れば、優勝者以外はすべて敗者になりますが、大会に向けての稽古に打ち勝ち、試合で全力を尽くすことのできた者は全員勝者と言ってもよいのです。

試合の結果が二の次であるとすれば、肉体的素質は関係ありません。
たとえ年を取っていても試合に向けて稽古すること精神的成長に繋がるのです。

若さの勢いだけで優勝してしまった選手で心の成長が結果についていかず、一度華やかな結果を残しただけで消えていってしまうことが多くあります。

そんな選手を横目に、コツコツと努力を続けていける人が本当の空手家です。試合で負けてしまっても、その体験の中から学び取れる人こそが「武道」としての空手を行なっていると言えるのです。

たとえ試合に勝ったとしても自分自身に打ち克つことのできていない者は、本当の意味で勝者ではありません。

敗戦の経験があるからこそ負けた選手の気持ちを理解することができるし、そこからどうやって這い上がっていけるかを知っているのです。
それだけ自分の懐が深くなっていると言えるでしょう。

その深い懐を得るために努力できる人を「武道家」だと言ってよいのだと思います。
ですから、「武道」として空手をやろうという人こそ試合にどんどん出て、敗戦を重ねるべきです。そして敗戦の中から学ぶべきなのです。

私がやっているのは「武術」だからルールのある試合はしないんだ、という人がいますが、決められたルールの中で全力を尽くすことのできる人こそが本物の「武道家」ではないでしょうか。
試合で負けることを恥ずかしく思い、それを避けるためにいろんな言い訳を並べてみても、本当に成長していける人敗戦の中から学ぶことのできる人だけです。


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