指導者ではなく


評論家


審判でもない

 空手に限らず、他の格闘技や野球、テニスに到るまで、試合を見てその内容をご丁寧に解説してくれる人がいます。

 こういうのに対して一般的に「お前は評論家か!?」と言ったりしますが、もちろん本物の評論家を指しているわけではなく、自分ではできないのにエラそうな能書きを垂れる人を揶揄した言葉です。ところが本当の評論家の中にも、筋の通らない評論家まがいの意見を言う人が混じっていたりするので話がややこしくなります。

 だから逆に、ファンに過ぎない素人の評論家まがいの人物が、その道の専門家ヅラして意見を述べ、更にはエラそうに指導に口を出したりすることになるのです。

 こちらの知らない事を説明してくれるのはいいんですが、まるで自分がその人のコーチのように「〜はダメだ!」とか、「もっと〜しなければいけない!」などと、選手への批判(アドバイス?)をする人がいます。

 こういうのもファンとしてのスポーツの楽しみ方の一つなのかもしれませんが、それが度を越して本気で指導できると思っている人がいたり、更には自分の方がもっとうまくできると言い出す人がいたりします。

 さすがに自分でもできると思い込む人は少ないのですが、以前にTV番組で、自分が編み出したこの技を使えば必ず勝てる!という素人が、プロレスラーに挑戦してコテンコテンにやられるというものがありました。
 身を以って体験すれば違いは歴然とわかるものですが、技術指導や精神論になると表面上はその違いがわかりにくくなってくる上、素人の意見にも一理あったりするものですから、勘違いするヤツも増えてくるのです。

 この記事では音楽家と評論家の違いを述べているのですが、空手にも通じている部分が大いにあるので取り上げてみました。

 注意する点は2つ。まず、評論と価値判断は同じではないということ。もう1つは評論家は教師ではないということです。

 一点目の、評論と価値判断は違うという点ですが、スポーツの試合で言えばルール上で正しいかどうかを判断するのは「ジャッジ」の仕事です。「ジャッジ」とは、直訳すれば「判断する」という意味で、その判断を下す人が「審判」なわけです。

 ですから、評論家が試合の内容について論じることはあっても、判定に口を出すのはおかしいことなのです。

 二点目の、評論家は教師ではないというのは、つまり、選手に指導するコーチや監督ともまったく異なる立場にあるという事です。

 ここで何より重要なのは、実践者は評論家になれるけれど、評論家には実践者でなくてもなれるという点です。

 この部分をキチンと認識していない人が、選手の出来や試合内容に口を出すからおかしな事になるのです。

 ここにも書かれていますが、「そんなにエラそうに言うんだったら、やってみろ!」は、よく聞くセリフです。しかし、この言葉は「評論家」に対して言うべきことではありません。それができる人なら、それこそ評論なんかせずに実践者として活躍すればいいわけで、自分ができないからこそ評論家として意見を述べているのです。
ですから、評論家がその立場でモノを述べていることに対して、上のように「やってみろ!」といった言い方をすること自体が間違っています。

 逆に言えば、評論家が選手やコーチ(指導者)の立場でモノを言ってはいけないということです。その立場で発言するのなら、実践者としてその種目を行わなければなりません。

 この境界が曖昧になるから選手側からすれば上に述べたように「それならやってみろ!」という言葉が出てくるのです。

 この記事にもあるように、イチローに打撃フォームを指導するような評論家まがいの人が多くいます。そんな人は単なる「マニア」に過ぎず、ファンの一形態に過ぎないのですが、自分を専門家のように勘違いしている人は多くいます。

 けれど、そんな人は実践者ではありませんし、ましてや評論家でもありません。

 本文にあるように評論家の仕事は直接に実践者の役に立つものではありません。けれど、実践者が批判の言動の中から自分にとって役立つものを引き出せることができれば、一段レベルアップすることができるようになります。そして、勿論これは外部の言うことに右往左往するのとは別です。

 ファンにはファンとしての立場があり、指導者・コーチとは役割が違うという事を自覚して発言するべきです。それぞれの立場で自らの役割をキチンと認識して行動することが大切なのです。ファンに過ぎない自分の発言を、指導者レベルでの発言と混同してしまうことにいろいろなトラブルの原因があるように思います。

 お互いが相手の立場を尊重し合い、良いところを取り入れ向上していく事が、評論家(及びファン)と実践者のどちらにとっても理想的な在り方なのではないでしょうか。


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