本当に不要なのか?


体罰礼讃


その有用性

 「礼讃」を広辞苑で引くと
「ありがたく思って、ほめたたえること。」

とあります。

体罰がありがたいなんてことがあるか!
 とお叱りを受けそうですが、この文章を読んでみて下さい。これは新聞の折り込み広告の裏に印刷されていたものです。
 この教師の行為は明らかな「体罰」となり、今なら懲戒免職となっても文句の言えないものでしょう。
 しかし、あなたが「個人として」この教師を判断するとしたら、これは非難するべきものでしょうか。

 日本の法律では「体罰は禁止」されていますから、法を犯しているという点においてこの教師は間違っています。
 けれど、学校の先生が「法を守る」ことを何よりも優先していてよいのでしょうか。

 警察官や裁判官は「法の番人」ですから、例外があってはいけないと思いますが、教師は人を教え、導く事最重要の仕事のはずです。

 その仕事の中での体罰は許容されるべきではないでしょうか。

 体罰が社会的な問題となっているこの時期に、費用を使って配布しているチラシの裏に、わざわざこんな文章を印刷して配布しているのは、このチラシの配布者が体罰をすべて排除するのはおかしいという意思を表しているのだと思います。

 今の時期、大きな声では言えないけれど、一方的に体罰を全否定するのは間違いだと考えている人がいるということです。

 この記事は養護施設の子供の養育を勧めるために書かれたもののようですが、子供を育てるという事は、自分のすべてをぶつけることであり、体罰も当然あり得るのだと考えていることが読み取れます。

 学校だけでなく、家庭や習い事でも体罰はあっていいと思います。

 現在、世間で問題になっているのは、体罰を越えた「暴力」であって、暴力を肯定しているのではありません。

 体罰がダメなのではなく暴力がいけないのです。

 体罰は、やってはいけない事を「痛みを以て知らしめる」ことであり、言葉を越えた説得力を持つものです。そして言葉での理解が不十分な場合には、非常に有用なものです。

 コラムの子供はホメて伸ばす?にも書いていますが、怒られるという事は絶対に必要です。そして、それは体罰を含んでいても構わないと思います。

 「体罰」とは、その字の通り「体」への痛み「罰」として与えるという事です。言い換えれば痛みが無ければ「罰」としての用を為しません。そして、その痛みを以ってしなければ理解できないこともあるのです。

 犬が子育てをする時には、仔犬のマズル(口吻、要するに口です)を咥えて指示を与えます。時には噛み付いて教える時もあります。直接身体へ力を使って強制するという点で、これは体罰だと言えます。
 もちろん親犬は噛む力をコントロールしていますが、噛まれるという痛みが無ければ仔犬は正しいことを学べないのです。

 人間は動物じゃない理性があるんだから話して聞かせればわかるはずだ、と言われる方もいるでしょう。
 けれど、すべてを言葉だけで指導・理解させることができると考えている人がいるとしたら、それはとんでもなく脳天気だと言わざるを得ません。

 こちらの言っている事を相手が同じように理解できているとは限らないのです。いや、同じように理解できていると考える方がおかしいでしょう。

 育ってきた環境や成長の度合いによって理解力に差があるのは当然です。だから、言葉で理解できない相手へ理解させるのに強制力は絶対に必要な事です。

 もちろん、体罰はあくまでも「罰」であって、暴力になってはいけません。その境目、境界の間違いを指摘し、正していくべきことが必要なのです。

 ただ、それは数字で表されるようなものではないので、どうしても曖昧にならざるを得ません
 だからといってすべてを一律に禁止で一括りにするというのは、逆に暴力的であるとさえ言えます。

 何でもかんでも「体罰はいけない」として「体罰」と「暴力」を一緒くたにしてしまうのは教育・指導の放棄に繋がっていくのではないでしょうか。

 なにも体罰を絶対しなければならないと言っているのではありません。やらないで済むならしない方がいいでしょう。けれど「体罰」と言う言葉にヒステリックに反応して、本来必要な指導までもができなくなってしまう状況はよくないと思うのです。

 やってはいけない事をしない、させないようにする。それを力付くででも教え込むというのが教育の根本にあるものだと思います。

 その気持ちを持って行われる体罰に対して、感謝を抱いて褒め称えたとしてもバチは当たらないと思うんですが、そういう考え方は少数派なのかもしれません。


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