心臓震盪


コモシオ・コルディス

commotio cordis
心臓震盪(しんとう)というのをご存知でしょうか。震盪ならば非常にポピュラーなものですから知っている方も多いでしょう。頭をぶつけてフラフラした状態になったり、気を失ったりする事です。同様に心臓震盪というのは、心臓に外部から衝撃が加わったことで心機能が低下してしまう状態のことです。

脳震盪は頭の内部が挫傷(つまりケガ)しなければ、それほど心配することはありません。もちろん心臓も内部で挫傷するほどの強い衝撃を受けると大変なことになりますが、心臓は強靭な組織で周囲は骨や筋肉に守られていますから、そう簡単に心臓の機能がダメになってしまうようなことはありません。ただし、心臓震盪は起こしただけで心臓が血液を送らなくなってしまうので即、命に関わることになってきます。

心臓震盪で心室細動を起こしてしまうと、そこからの回復にはAED(自動体外除細動器)を使って電気ショックを与えるしか治療方法がありません。

最近になってこの心臓震盪というのがスポーツ関係者の間で話題になり始めました。 心臓に問題を持っていなかった若年層で突然死として扱われてきたもの中には、この心臓震盪が多く含まれているのではないかと言われています。

2007年4月に高校野球でピッチャーライナーを胸に受けた選手が、当時使用が一般人に許可されたばかりのAEDを使って助かったという事例が広く新聞で取り上げられ、AEDの普及に一役買ったというのがよく知られています。

心臓震盪はまだ胸郭の骨の未発達な小中高生に多いとされ、野球の練習で胸にボールを当てて止めろという指導は良くないと言われ始めました。胸部を保護するパッドを付けるべきだとして用具が開発されたりもするようにもなってきました。

「心臓震盪から子供を救う会」といった団体も設立され、そういった方々や医療関係者の啓発活動によって、これまで知られていなかったこのようなアクシデントに対応できる人も少しずつ増えてきました。

しかし、これが逆に行き過ぎて過剰対応になっているように思います。
「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」というやつですが、いま空手界でこれが顕著に現れています。

どういう事かと言うと、心臓震盪を防ぐために子供の試合で胸部プロテクターを義務付けようという動きが広がっていることです。

安全面から万全を期すというのはわかりますが、これらはトレードオフの関係にあり、どちらをどこまで優先するのかは、やっている当事者(子どもの場合は保護者)に決定権があります。
もちろんその種目の特性は親にはわからない部分もありますから、その子供を預かる空手道場の先生にも当然責任があります。

だから、大会の主催者はより安全な(危険のない)方法を選ぶのでしょうが、本当にそれでいいのでしょうか?

安全に行なうのに越したことはない。

それは正しいと思います。

しかしそのことを優先するのならば、空手をする必要はありません
全ての危険から遠ざかって危険な事には近づかなければ良いのです。

けれど、人生を生きていくのにそんな安全な道だけを通っていくわけにはいきません。 危険な道を通らざるを得ない時もあるはずです。 その時の為に、心理的にも肉体的にも耐えることができるように空手を学んでいるのではないでしょうか。

「空手を習わせているのは礼儀や武道精神を学ばせるのが目的で、死に至るかもしれないような試合をさせるためにやらせているんじゃない!」と怒る保護者の方もいるでしょう。
その通りです。
そして、そう思われる方は寸止め空手でもやらせるか、他の武道をさせたらいいのです。

実は一般に思われているほどフルコンタクト空手は危険なルールではありません。
顔面へのパンチを認めているK−1のようなルールでは死者が出たこともありますが、ボクシングに較べるとはるかに少ないものですし、更には柔道と較べてもやっている最中に出る死者の数はほとんどないと言ってもいいくらいです。

戦後になって初めて直接打撃による空手の試合が行われた時には、死者が出るのではないかと言われたそうですが、実際そんなことは起こらず、空手の試合中にケガをすることはあっても、打撃が原因で亡くなったという事例を、私は寡聞にして聞いたことがありません。

上で「羹に懲りて膾を吹く」と書きましたが、実際に心臓震盪で亡くなられている方はおられます

だったら、そうならないように気を付けるべきではないかと思われるかもしれませんが、それが起こる頻度を考えていただきたいのです。

実は心臓震盪を起こすのは非常に稀な事なのです。

アメリカで2001年に起きた症例の128例中では、野球のボール58、ソフトボール(重い)14、ホッケーのパック10、ラクロスのボール5で、硬いボールの方が心室細動を誘発しやすいという結果が出ています。
心臓震盪の症例の中には幼児や低学年の子供がフリスビーで遊んでいる最中や、プラスチック製のパッドが当たって起きた事故もあるそうなので、簡単に起きるものだと思われる方もいるかもしれません。しかし、そんなに頻繁に起こっているものではなく、「心臓震盪から子供を救う会」が把握しているのが国内で10例。別のソースでは日本で起きたものは14例報告されている、とあります。

いいですか、たった14例ですよ。

日本中でフルコンタクトで空手をしている人が組手をしている延べ人数はいったい何人になるのでしょうか、概算で考えても何万人となるのではないでしょうか。

例えば10人いる道場で、一度の稽古で全員と一回ずつ組手したとして延べ45人。週一で稽古をしているとして、その道場だけで年間2340人が組手をする計算になります。大学などでのクラブも含め、日本全国の道場を計算に入れると、一体どれだけの人が組手しているのか、数え上げるのも難しいでしょう。

確かに胸にプロテクターを付けた方が安全かもしれません。
だからと言ってプロテクターを着けるのが良いのかどうかです。

空手の団体にもいろいろあって、組手の時に技が当たると危険だからと寸止めで行うところ、ボディプロテクターを使うところ、顔面にマスクを被るところ、グローブを使うところと様々です。

どのスタイルを選ぶのかでその道場がどのような空手を目指しているのかがわかります。
例えば、柔道の稽古中の死亡率は空手よりもはるかに高いもので、年間何十人もの死者が出ています。もちろん不注意によるものや不適切な稽古法によるものもあるでしょうが、投げられた時に頭を畳にぶつけて脳障害を起こしてしまう例が多く見受けられます。

だから頭を打たないようにと、投げるのが禁止になるでしょうか。
絶対になりません
なぜなら、そういう競技だからです。

だから、そうならないように受け身をきちんと学ばせる必要があるのです。
投げられて頭を打つと危険だから、という理由でヘッドギアを付けたりもしません。寝技で耳がつぶれるのが嫌だからといってイヤーパッドを付けて試合に出る選手もいません。

なぜなら、それが柔道だからです。
柔道をやる以上は、そういうことがあると知った上で行わなければならないのです。

ラグビーならば耳当て突きのヘッドギアを付けて試合に出てもおかしくはありませんが、更にそれ以上のプロテクターを付けようとするならアメフトなど他の種目を選ぶことになります。

空手の場合も同じです。フルコンタクトの空手をするのならば、その特性を承知の上で行わなければならないのです。

空手の持つ武道性と、フルコンタクト空手のスポーツ的な面を合わせ持つことで得られる効果は、そのマイナス部分を差し引いても十分にやる価値はあるものだと思います。

だから我々が心臓震盪について考える時には、起こさないことに気を使いすぎるよりも、起きた場合にどうするかを考えて対処できるようにしておく事の方が実際的なのです。

心臓震盪について言えば、それを起こす可能性は空手に限らず日常の中にいくらでもあるのです。そのことを理解した上で、空手の稽古中に起きた場合にはすぐに対応できるように、AEDが使える場所で稽古するなどの配慮していればそれで十分だと思います。
(もちろん指導者が見ていない時には組手は行わないなどのルールは決めておくべきです。)

それにこういったトラブルには心室細動以外の心停止も考えられます。その時には心臓マッサージなどの応急手当てができるかどうかが重要になってきますから、道場の指導者はきちんとした応急手当の知識を持っておくべきでしょう。

可能性がゼロではないなら、命に関わることなんだから安全にやった方がよいではないか?という意見もあるでしょう。もちろんそれが間違っているとは言いません
けれど、その頻度との関連を考えずに、何でもかんでも安全にしたらよいというのは「空手」というものに対して、少し敬意が足りないのではないでしょうか。

例えば現在の日本では交通事故後、1年以内の死亡者は1万人を超えます。
だから事故に遭わないように道路を歩かないのでしょうか?

飛行機の墜落事故を見て、飛行機は落ちたら死ぬ確率が高い、だから私は飛行機には乗らない、という人もいます。

しかし、実は飛行機に乗って事故に遭う確率は、自動車事故よりも遥かに低いものです。

空手で心臓震盪を気にし過ぎるのは、このような飛行機に乗らない人や道路を歩かない人と同じようなものだと言ったら言い過ぎでしょうか。

これが大げさに聞こえる人は、次の心臓震盪の起こるメカニズムを見てください。
以下の説明は少し専門的なのでややこしいと思われる方は飛ばしてもらっても構いませんが、心臓震盪がそれほど頻発するものではないというのがわかってもらえると思います。

まず、心臓震盪は非常に稀なコンディションの元で起こるものです。
そして心臓震盪は器質的障害(いわゆるケガ)ではなく、機能的障害(致死的不整脈)です。

これがどういうことかというと、強いパンチを受けて心臓に傷がつくのではないのです。つまり、それほど大きな衝撃がなくても心臓震盪は起きるということです。
それを起こす衝撃の大きさを正確に言えば、心停止を起こすには最低50ジュールのエネルギーが必要とされるそうです。

1ジュール = 1ニュートンの力が力の方向に物体を1メートル動かすときの仕事
1 J = 0.102 重量キログラムメートル
なので
1 J = 102グラム(小さなリンゴくらいの重さ)の物体を1メートル持ち上げる時の仕事
ですから
50ジュールは床に置いた5kgの荷物を高さ1メートルの机の上に置く仕事量ということになります。

ホッケーのパックやラクロスのボールで130ジュール、空手のパンチでは450ジュールあるとされています。ボクシングのロッキーマルシアノのパンチでは1028ジュールもあったということですから、胸に僅かなクッションを付けただけでこの衝撃を50ジュール以下に抑えて心臓震盪を防ぐというのは、少し難しいのではないでしょうか。

けれども、硬いボールの方が心室細動を誘発しやすいという報告がありますから、空手の場合には拳サポーターやパンチンググラブを使用することで、発生はかなり抑制できると思います。

当たる部位は心臓直上に限られ、周辺部では発生率は極端に低下するそうです。つまり胸に当たる位置が心臓より少しでもずれていれば心臓震盪は起きません

そして何より一番重要なファクターはタイミングです。

次の図は心臓の鼓動一回をグラフで表したものです。ドラマなどの入院シーンでよく見かけるアレです。

心拍

心臓一回の収縮は、P・Q・R・S・T波と名付けられている5つの波(wave)から成り、最後のT波の頂上から0.015〜0.03秒前までの「受攻期」と言われる期間に衝撃を受けると心室細動が誘発される。(グラフの青色部分)
つまり心室収縮期から心室拡張期への移行する20マイクロ秒(0.02秒)の間に衝撃を受けないと心室細動は起こらないのです。

以上は心臓の鼓動一回を約1秒としていますが、運動中は心拍数が簡単に2倍以上に上がります。そうなるとこの「受攻期」の時間も半分以下になると考えられますから、僅か0.01秒もない瞬間にヒットしなければ心臓震盪は起きないということになります。

身体をひねったりして受ける暇も無く、心臓の真上に50ジュール以上のエネルギーを持ったパンチが当たり、しかもそれが特定の0.01秒の間にヒットするなんてことを、そんなに心配する必要があるのでしょうか。

事故が起きるのをできるだけ防ぐ意識は大切ですが、その確率が交通事故に遭うよりもはるかに少ないような事であれば、そのことにそれほど神経質になる必要はないと思います。

この僅かなタイミングで起こる事故は、そのタイミングさえ合えば、遊んでいる時にフリスビーが当たっただけでも起こりうることなのです。それに対して殊更過剰な防衛策を講じるのを「羹に懲りて膾を吹く」というのは言い過ぎでしょうか


inserted by FC2 system