「常識」についてB


郷に入っては郷に従え


人によって違う常識
 普段、生活していて「常識無いなー」と思う人と一緒になると、イライラさせられてしまう事があります。
 しかし、「常識」というくらいですから、それは誰にでも当てはまって当然だと思っていないでしょうか。
 この「常識」はその人の所属する集団によって大きく変わるものです。

 人としての存在価値に上下はありませんが、俗に言う「住む世界が違う」ということは今でも存在しています。一番わかりやすいのは「金銭感覚」ではないでしょうか。

 自分では支払うのを躊躇する事柄に、平気で大金を出す人達とは一緒に生活していくことはできません。自分の「常識」では使うべきではない金額をポンと出して使う人とは「住んでる世界が違う」と思ってしまうからです。

 一昔前は社会生活を送っていく上で、自分の属する社会が違う人とは同じ場で過ごすことがあまりないものでした。所属する社会が違うと常識も異なっていて当たり前なのですが、同じ場で過ごすことがなかったので問題になることは少なかったのです。

 例えば、日本では玄関で靴を脱いで家の中に入るのが「常識」です。それをしない人に対しては、「土足で人の家に上がりこんで!」と非難の対象になるわけです。
 ところが、欧米人は靴のまま家の中に入りますが、彼らにとってはそれが当たり前なので悪い事をしているという意識はありません。

 日本と外国とで「常識」が違うというのはわかりやすいのですが、日本人同士であっても所属する社会が違うと常識は大きく異なります。

 極端な例ですが、サラリーマン社会の常識とヤクザの世界の常識は異なります。以前はそういった異なる社会の人間同士が同じ場所で過ごす事はあまり無く、お互いが交わる時には相手社会へ入っていく事を意識して相手の世界の常識に合わせていたので大きな問題にはならなかったのです。

 一般社会のサラリーマンでも、賭場に出入りして賭け事に興じる時には、当然そこのしきたり(=常識)に合わせなければいけませんし、逆にヤクザ者にも一般社会では「素人さんに迷惑掛けるんじゃねえ!」というのが当たり前の事としてあったわけです。だから、世の中全体としてはバランスが取れていたのです。
 ところが、最近ではそれぞれに所属する社会が違うということを認識できずに、自分の常識がすべての人に当てはまるのが当然だという態度の人が増えています。

 日本では昔から「別の常識の場」では、そこの常識に従いなさい、という教育がなされてきたました。「郷(ごう)に入(い)っては郷に従え」というやつです。それが最近は、「自分のやり方で何が悪い!法律違反なのか!」などと言う輩が増えています。

 以前は銭湯に行けば、回りに年輩の人や恐い大人がいて、走り回ったり水を撥ねさせたりしたら他人の子であっても怒られたものですが、最近では家庭に内風呂があるのが当たり前になっていますから、そういったマナーを身に付ける機会が失われています。
 本来は親がそれをしつけるべきなのですが、自分の子供でさえキチンと叱れない親が増えていますし、若い親になると自分自身がその常識を身に着けていないのですから家庭の躾に期待する方が無理なのかもしれません。

 小学校の給食の時間に「いただきます」を全員に言わせる事に文句を言う親もいるそうです。給食費を払って食べているのだから、そんな事は言わなくてもいいという理屈だそうです。その理屈の是非はさておき、学校という社会の中に入った時に、集団で行動する事に合わせられないということ自体、「常識がない」行ないです。
 「いただきます」という言葉に込められた、他の生き物の命を頂いているという気持ち、作ってくれた人への感謝などの内容について、宗教的に同意できないということがあるのかもしれませんが、世界中のどんな宗教を信仰する人達であっても、日本の小学校に入ったとしたら給食を食べる時には「いただきます」と言うべきものです。

 そんな「常識」にあれこれ屁理屈を付けて自分勝手に物事を行なおうとすれば、その社会から疎外されるのも当然です。

 昔は自分の所属する集団が小さくても、それぞれ更に大きな集団の中に位置づけられていたのですが、今は集団から飛び出して社会から孤立しても日々生活していくのには困らない世の中になっています。だから「引きこもり」をしていても生きていけるのです。
 けれど、その社会の中に存在しているだけで、その社会から恩恵を受けているのには違いありません。
 世の中からお世話になっている事には、道路が舗装されていたり、信号が付いていたり、夜道を歩く時に街灯があったりなど、個人ではできない事がたくさんあるのです。それなのに「してくれと頼んだワケじゃない!」などと言って、その社会の常識に合わせるのを嫌がり、義務的な事柄を果たさず、そのくせその社会で認められる権利だけは主張するのですから、自分勝手にもほどがあるというものです。

 「ちゃんと法律で認められている!」「人としての権利だ!」などと声高に主張する人に限って社会全体に奉仕するなんて事はしていないものです。法律で認められている「権利」であっても、その権利が得られるまでにどれほど先人の苦労があったのかということを忘れてしまっている人が多過ぎます。

 常識は所属する社会によって異なる部分が大きいと先に述べました。けれど、人として生きていく上で共通認識となる「常識」はあるんじゃないかと思うのですが、これも「私の常識」に捉われてしまっているせいなのでしょうか。

 常識のある人は、常識のない方々とどう付き合うかを、常識で考えなければいけない時代になっているようです。



「常識」について
項目内リンク
@感覚の違い
A野良犬
B郷に入っては郷に従え
C常識のズレが起こるわけ


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