「常識」についてA


野良犬


常識知らず
 基本的に犬や猫は、自分勝手に好きな所でオシッコやフンをします。そこが人の家の前であろうとも関係ありません。それこそ以前ならばノラ犬やノラ猫がそこらで糞尿を垂れ流しにしていても、動物だからしかたないか、という諦めもありました。

 ところが、最近は野良犬というのはほとんど見ることがなくなりました。猫でさえ飼うなら室内で、というのが当たり前になってきています。室内で犬や猫を飼っている人はトイレの場所を決めてそこでするようにしつけている場合がほとんどですが、それでも犬は外へ散歩に連れていってさせているという人が多いのではないでしょうか。そして、自分が散歩させているにもかかわらず、人の家の前でフンをさせてそのままにして放置している人がいます。

 これは犬が悪いのではなく飼い主が悪いのです。

 犬自身が
「ここは人の家の前だからフンをしてはいけない」
などとは考えません。
 どこで何をしてはいけないかという事は、飼い主が躾けなければならないのです。

 人も同じです。指導監督する者が常識をわきまえていないと、犬が人の家の前でフンをしても恥ずかしいと思うことがないように、非常識な事をまったく恥ずかしいと考えない人間が出来上がってしまいます。

 指導する者がキチンと教えてやらないと、当然ながら指導される側ができるようにはなりません。「常識」を知らない大人になってしまうのです。

 平たく言うと、そいつは人の家の前でウンコをしても、そのままで平気な人間だということであり、同時にそれは、指導する立場の者そういう種類の人だということを表しているのです。

 最近はそんな人間が増えてきたように思います。いいえ、単に数が増えたせいだけではないかもしれません。社会がそのようになってきていると言えるでしょう。

 昔はそんな類いの人間は、一般の人からは相手にされず、同じような者同士で交流するしかありませんでした。「類は友を呼ぶ」と言いますが、似たような考え方をする者同士が集まってグループを作りコミュニティを形成します。そして、同じ種類の人間ばかりが集まれば、その中でのルールには皆が納得の上で従いますから、特にトラブルが起こるようなこともなかったのです。

 それが最近では、いろんな人間が同じ場で過ごすという事が増えたせいで、「常識外れ」の人間が増えたように思えるのです。

 身分制のあった時代は、違う身分の人間は住む世界が違うので、お互いに関わることもなかったのですが、現在の法律の中では建前上、身分制がなくなったことによって、いろいろな階層の人間同士がお互いに接触する場面も増えてきました。

 しかし、実際の交友で両者が親しく交わることはほとんどありません。
なぜなら、ものの考え方、価値観が違うからです。金銭面で価値観の違いが言われるのはよくあることですが、それ以上に一般常識が違います「一般」常識と言うくらいですから、すべての人に共通であるかのように思っている人も多いかもしれませんが、実際はそうではありません。
 自分の所属する社会の中で、大方の人が当たり前だと思っていることがその人にとっての一般常識となります。だから、住む社会が異なれば、当然その中の常識は異なってくるのです。

 誤解のないように言っておきますが、これは身分が違うということで人を差別しているのではありません。人間としての存在価値に上下はありませんが、住んでいる社会が違うということは、その社会での常識がそれぞれ違うということです。

 例えばアメリカでは室内に靴のまま入っていくのが「常識」ですが、日本で家の中に靴を履いて入っていくのは「非常識」なのと同じです。

 しかし、それぞれの所属する世界が違っても、そのいろいろな世界全体を含んだ「世の中」という大きな社会の中には、社会全体のルールというものがあります。
 それはっきりと形を持った法律だけではなく、社会全体での「常識」として、皆が当たり前のものとして守ってきたものでした。
 ところが、大きな社会の中で行動を取る時に、自分の回りだけのルールを全体の中で押し通そうという人がいます。(その人にとっては「常識」なのかもしれませんが)

 世の中の「一般常識」から外れたこのような人達が実は多く存在しますし、また、その数が増えているようです。

 例えば、電車の中で化粧をするのは、以前は「非常識」とされていたのが(心ある人にとっては当然今でも「非常識」なんですけどね)、今はそこそこ年齢のいった中年の人でさえ、恥ずかしげもなく車内で化粧しているのを見掛けます。若い女性に限定すれば、電車の中での化粧をダメなことだと考えている人の方が遥かに少ないでしょう。

 つまり、「一般常識」「普通のこと」として考えることができるのは、社会全体の中では一定の教育を受けた人達でないと無理なのです。
(ここで言う「教育」学校教育だけを指すのではありません。家庭教育社会教育など、すべてを含みます。)

 常識は勝手に身に着くものではありません。その社会の中で教えられて知っていくものです。だから、たとえ学校へ行っていたとしても教えられることを拒否した人間にはその社会の常識は身に着いていないのです。

 自分の家の犬にならば躾(しつけ)をすることもできますが、ノラ犬に躾はできません。 だから放っておかれることになるのです。その社会の中に所属していなければ、そういう指導を受けることはできないのです。
 そして、そんな種類の人間は放っておかれても、そのことにさえ気付かないでしょう。 (もし、気付くことができたなら、それは改善できる可能性がまだ残っているという事です)

 もっと言えばそんな相手に関わってはいけません。ノラ犬にはノラ犬の常識があって、相手は「自分の世界の常識」を押し付けてくるからです。

 そんな人は、以前ならば「常識知らず」として世の中から排除されていたのが、その数が増えていくにしたがって、いわば、社会の中での新しい常識として通用し始めています。

 昔の心ある人にとっての常識は、だんだんと遠く離れたものとなっているようです。

 そんな「常識知らず」とは関わらないのが一番なのですが、現代社会は階層が混在化しているため、好むと好まざるとに関わらずそんな相手と接点を持たざるを得なくなっています。
 たとえば街中で絡まれてしまうこともあるかもしれません。肩が触れたとか、目が合ったとか。それは相手にとって[= ケンカを売っている] ということになるのです。

 その時に「話し合えば分かり合えるはずだ」などというのは幻想です。基本的にものの考え方が違い、常識が通用しない相手だからです。

 「話せばわかる」というのは1932(S.7)年の5.15事件で暗殺された当時の首相、犬養 毅のセリフとして有名ですが、この時の将校はそれに対して「問答無用、撃て!」と言って犬養首相を銃で撃ったそうです。国を運営する国会の長として、話し合いで問題を解決できると考えていた人と、自らの意見を通すためには力で相手を倒せばよいと考えていた者との「常識の違い」がここに現れています。
(今の日本の政治家にはそんな「常識」は通じなくなっているのかもしれませんが)

 話し合いで済むことならいいんですが、話の通じない相手は、自分の意見を通すためにこちらに危害を加えてくることも考えられます。常識が違う相手と話し合いはできません。その時に被害者にならないためには、自分を守る力を付けておくことが必要だと思います。そのために空手を学ぶことが役に立つのです。

 空手を学んでいる人には社会の中でも常識を知った人として存在してほしいと思います。せっかく空手の道場という社会の中に入ってきたのですから、ここで「常識」を学び、身に着けていってください。
 道場での稽古を通して「常識」を学ぶことも空手の重要な役割だと思います。
そうあってこそ空手が武道として世の中に存在する意味があるのです。

 空手を通して皆が「常識」を身に付け、社会の中で活躍できる人になってほしいと願っています。

「常識」について
項目内リンク
@感覚の違い
A野良犬
B郷に入っては郷に従え


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