「常識」について@


感覚の違い


価値観の多様化
 この記事は日本人と中国人の感覚の違いについて書かれた新聞のコラムですが、国際社会になってきている現在は、このようなことを日常風景の「常識」にしている中国人とも同じテーブルについて交渉しなければなりません。

 自分と違う常識を持つ相手とは関わらなければよいのですが、そうも言ってられない場合があります。そういった場合には、いかに相手と揉めずに話を進めることができるかが重要になってきます。

 文中にあるように、「相互理解には相互の我慢が必要」なのは当然ですが、相互に理解するという事と、自らの言い分を相手に我慢しろというのは別物です。
あくまでも「相互に我慢する」のであって、「こちらの事を理解したいならそちらが我慢しろ」というのは自分勝手というものです。

 本文では日本人と中国人との常識の違いを一般的に述べていますが、ここで言う中国人的な行動を取る日本人が増えているように思います。
 他人への思いやりを忘れ、自分中心に物事を考える人が増えていると感じているのは私だけではないでしょう。

 これは育ってきた環境の違いが大きく影響していると思います。
 同じ日本人であっても違う環境で育ってきた人とは常識が異なります。当然ながら中国人が中国で生活している分には何の問題もありません。みんなその環境で育ってきたからです。
 けれど、日本人にとっては非常識に感じる事が多くあります。違う環境の人にとって、そこでは常識であってもマナー違反だと感じることになるのです。

 ですから、違う環境で育ってきた人と同じ土台に立って話をしようとするなら、「常識」が違うという事を念頭に置かなくてはなりません。

 例えば、アメリカ人は靴のまま室内に入ってきます。アメリカではそれが社会的に「常識」だからです。
 ところが日本の場合は「土足で踏み込む」というのは失礼な行動の代名詞になるように、家の中は靴を履かないというのが「常識」です。

 このように社会によって常識は異なります。国の違いほど大きくなくても育ってきた社会が異なると「当たり前」が違うのです。

 違う常識の者に理屈は通りません。なぜそれがダメなのか理解できないからです。だから、お互いの共通認識がないと会話にならないのです。
 それを忘れて同じ人間だから分かり合えるはずだ、などと言ってる人は相当に能天気な人だと思われても仕方ありません。常識がない人と付き合っていくには、相手に常識がない事をわかった上で、そんなものだと思って付き合わないといけないのです。

 現在の日本は価値観が多様化していて、今までは「常識」だと思っていたことがすべての人に通用しないようになっています。
 日本人と中国人というように国籍の違いだけでなく、日本の中だけで見ても富裕層と貧困層の差は大きくなっていますし、若者と老年層ではモノの捉え方にそういった大きな隔たりがあります。社会階層や年齢層が異なると、当然「常識」が変わってきます。ですからそんな風に常識が違う相手に対して、「この感覚、同意できますか?」と、自分側を正当化していてはダメなのです。
 「わかり合えない」ことを前提として付き合えば、多くの「ハラが立つ」出来事も許せるようになってきます。
 そうやって同じ社会の中で一緒に過ごしていく事で、相手に影響を与えて、教化していくことができれば素晴らしいと思います。

 実際、日本で何年も過ごした中国人留学生が帰国して日本式の常識的行動を自然に取るようになったのを見て、「〇〇は日本へ行って人が変ってしまった。」良い意味で評判になっていることがあるそうです。
 誰でも自分がされてイヤな事と、逆にやってもらうとうれしい事には人としてそんなに大きく変わるものではありません。どちらの「常識」が人として上なのかを自分で判断し、その行動が取れるようになりたいものです。

 「道場」が一段高いレベルの「常識」を身に付ける場となれればと思っています。

「常識」について
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A野良犬


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