自己流では限界があるから


人に教わる


コーチの必要性
 上級者や先輩が初心者や後輩に指導するのは、どこの道場でも普通に見掛ける光景です。

 当り前のことだと思われるかもしれませんが、これが「道場」ではないジムやスポーツクラブのようなところだとあまりこんなことはありません。「客」である練習生やクラブの会員は指導を受ける対価としてレッスンフィーを払っているからです。

 指導料を払っているのにキチンとした指導者から指導を受けられないとしたらそれは詐欺みたいなものでしょう。
 ゴルフのレッスンを受けに行ったら隣で打っていた人が教えてくれるだけだった、みたいなものです。

 大手の道場に通っていた人と話をしていた時に、
「もう有段者だったら指導とかもしてるんでしょう?」
と聞くと、
会費を払って習いに行ってるのに指導なんかしていたら無駄じゃないですか。」
と言ってました。

 商業主義的な面からすれば当然のことですが、空手を「武道」としてやっているのなら、それは大きな思い違いをしていると言えます。

 技術の切り売り指導が武道の本質ではなく、内弟子などに入れば掃除や食事の準備、師の着替えの介助など、技術を習う以前のことが山ほどあります。「雑用」などと一括りに言いますが、その雑用の中にこそ、武道の修練が含まれているのです。

 一般道場生にそこまで要求するのは難しいかもしれませんが、稽古の前後に道場清掃などをさせるのは普通のことですし、本コラムの「指導する事で上達」でも述べた通り、武道の修行は「道を目指して」行うものですから、その道場の稽古に励む者同士で先輩が後輩を指導するのは当たり前のことです。

 そして、たとえ年配の方でも初心者ならば、まだ高校生のような先輩に指導を受けることがあってもおかしいことではありません。
 それによって教える方も技術の再確認や、指導する際に工夫することによって、お互いが上達していけるようになるからです。

 だからこそ、稽古する場が道を目指すための「道場」になるのです。

 そうはいってもその組織が会費を受け取って会を運営しているのならば、当然そのトップの人は「指導のプロ」でなければなりません。武道としての精神的な指導が重要なのは当然ですが、技術的にもうまく、強くなれる指導ができなければ、その種目を教える資格はありません。

 けれど、上の者が全体を統括した上で、指導を下の者に任せることもよくあることです。その場合に指導内容がトップレベルのものではなくても、その時点で習う側がまだその上のレベルに達していなければ、別に問題は無いわけです。

 もちろん、まだわからないからいいだろう、といういい加減なものではなく、基本的なところを押さえておけば技術を習得するのに、まずはこのレベルでよいという意味です。

 ただ、まだ「わからない、できない」からといって、自分勝手なやりやすい形で行っていれば、その先の上達が阻害されることになりますから、基本的なベースになる部分については大きく外れることがないように指導しなければいけません。

 先輩が後輩を指導するのは、後輩の上達を助けるためであり、同時に、先輩の方もそれを自分の稽古に役立てるものです。ですから、その指導が「プロ」のようなものである必要はありません。不十分なものでも構わないのです。一緒に稽古して一緒に上達していくためのものだからです。

 そして、そこに自分なりの工夫や気付きを加味して教えるのも悪いことではありません。空手の技は「基本」としてのものはもちろんありますが、年齢、体格、柔軟性や熟練度によって個人個人で違いがあって当然だからです。

 けれど、自分にはやりやすい方法であっても別の人にはうまくできないこともあるし、またその逆もあります。いろいろな方法を試して自分に合ったやり方を見つけるのも大切な稽古の一つです。
 そこに自分の可能性を見つけていくということが武道を修行するということだからです。

 「プロ」として指導しているならば、教えられた者が上達していくのが第一なのは当然ですが、それが武道であるなら、目先の上達(単に「できる」ということ)に気を取られてはいけません

 すぐにそれができないからといって諦めてしまうのではなく、それができるように繰り返すことも重要な「稽古」になるからです。

 稽古は「古(いにしえ)を稽(かんが)ふ」と読みます。
 師から教えられた内容を、なぜそのようにするのかを考えながら、試行錯誤を繰り返して自分のものとしていくのです。

 昔からのやり方ではうまくならないといって、あっさりそのやり方を棄てて別の方法を採るのでは「稽古」ではありません

 もちろん、新しいものを取り入れて、技の一つひとつをブラッシュアップしていくのも大切なことですが、基本的な人間の体の構造は10万年前から何一つ変わっていないのですから、そう易々と別の合理的な身体操作が見つかるとは思えません。

 個人的な身体能力の差異と、普遍的な技術の違いとを混同しないようにしたいものです。

 もし、古来の技法に満足せず、新しい技術を自分で発見できたのならば、それを新しい武道として名乗ればよいのです。

 けれど、そのように自らの努力のみで新たな技術を発見したり、上達していけるのは才能に恵まれたほんの一握りの者だけです。
 自己流では一見やりやすい方法に思えても、上達していくのには限界があるから人に教わることが必要なのです。

 自分ひとりで稽古して上達できるのは天才だけです。そして、ほとんどの人はそうではありません。自分の状態が中々客観視できないからです。だから、そこにコーチ(= 指導者)の必要性が出てくるのです。

 オリンピックで金メダルを取る選手にも、ほぼ全員にコーチが付いています。上のレベルに行くほどハイレベルな見極めが自分では難しくなるからです。

 オリンピックで金メダルを取る選手でさえコーチに付いて指導を受けているのに、自分ひとりで強くなれるなんていう人の自信は一体どこから生まれてくるんでしょうか。
 それは本当の天才か、自分をキチンと見つめられない勘違い野郎のどちらかです。

 また、「自分より強い人の教えしか受けたくない」とか、「女性指導者の言うことは聞きたくない」という選手がたまにいますが、それは現役の選手とコーチとの関係を理解していないということです。

 金メダルを取らせたコーチが、全員、現役選手時代に金メダルを取れるような選手だったかというと、そんなことはありませんし、コーチをしている時点でその現役選手より今現在技術レベルは低いということです。

 選手より強い(うまい)のなら自分が選手として出ればいいんですからね。

 つまり、コーチがその選手より強い(うまい)必要はないのです。
 コーチに必要なのは、選手を上達させるトレーニングを知っていることと、その選手に合ったトレーニングをさせることです。

 もちろん、強くてうまいコーチに指導してもらった方が教えてもらうことに納得できますし、コーチ自身ができていることを教えてもらう方が説得力もあります。けれど、コーチ自身がその技術をできていなくても、どうすればそれができるようになるかをわかっていれば、それで十分なのです。

 選手にとっても、コーチがその技術をできることより、教えてもらった自分ができるようになることの方が重要なはずです。

 「名選手必ずしも名コーチならず」と言ったりしますが、選手としてどんなにすばらしい技術を持っていたとしても、その技術を説明し、それができるようになる方法教えることができなければ、教えてもらう側にとっては「良い指導者」ではないのです。

 自分がうまくなろうとするのなら、まずはキチンと指導者に着くことが大切です。そして教えてもらう側がキチンとその指導に乗らなければ上達していくことは難しいのです。

 道場で指導を受けるということは、先輩の稽古の手伝いをすることも稽古であり、教えられたことを自分だけでなく後輩に伝えることも稽古なのです。その中で足りないところ、わからないところを師に聞くことで指導の中身を再確認し、理解を深めることによって道場全体のレベルを上げることになります。そうすることで自分の稽古のレベルも上げることができるのです。

 人に教わり人に指導することが、実は、自分が上達するための早道なのです。


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