朝鍛夕錬


稽古の継続

朝鍛夕錬(ちょうたんせきれん)
 この言葉は今年の年始に当たって私の師から頂いた言葉です。

 今は直接お目に掛かってご指導を仰ぐ事は中々できないのですが、私はこの師から教えを受けた事で今まで空手を続けることができているのだと思っています。

 師の教えは幅が広く、深い内容を含んでいる事ばかりなのですが、その肝要はというと「基本をしっかり稽古しろ」ということに尽きます。

 すべての技は基本の上に成り立っていることを師はいつも強調されていて、「誰が何と言ってもだよ!」と繰り返し仰っていました。
 基本をしっかりやるからこそ素質に恵まれていない者でもコツコツ稽古を続ければ確実に上達していける。それを教えてもらえたからこそ、今、私が空手を続け、道場生に指導することができるのです。

 素質に恵まれている奴だけしか強くなれないのなら、私自身がとっくに挫折して空手の道から離れていた事でしょう。

 それほど素質に恵まれていない道場生であっても必ず強くすることができる。それがわかっているから地道な稽古をさせることができるのです。

 勿論、素質がある奴なら、もっと上に、もっと強く、と鍛えていくこともできますが、それも地道な基本の動きがあってこそのものです。

 そう思って日々指導に頭を捻っているのですが、上の言葉を頂いた時、自分を振り返って考えてみると、自分は果たして「朝鍛夕錬」できているのだろうかと考えさせられました。
 若くて時間が有り余っている頃なら「朝に鍛え、夕に錬る」そんな生活をしていた時期もありましたが、社会人として生活していく上で生計を立てる仕事をする必要もあり、朝に夕に空手漬けの生活をしているわけにもいきません。週に何度かの稽古日に、指導の傍ら多少のいい汗を流す程度になっているのではないか、そんな自問と自責の反省が頭をよぎりました。
 けれど、また更に次のような疑問が頭に起こりました。

 「師は私に若い内弟子と同じような稽古をしろと言ってきたのだろうか・・・」

 勿論、身体が動く間は動けるだけ動いて汗をかいて稽古をするのが本来の姿です。 けれど、年齢が上がり、身体の古傷がアチコチ痛み出すようになった者に、若い奴と同じことを求めるのは逆に武道の本筋から離れているのではないか、そんな考えに至ったのです。

 朝から晩までハードに身体を鍛え、激しく組手をする。若くて身体が動く間はそんな鍛錬が必要だと思います。
 毎日クタクタになるまで稽古しても、たらふく食ってたっぷり寝ればちゃんと身体は回復してくれます。最初のうちこそ、「もうムリ!」と思うほど体のアチコチが痛くなり、朝に起き出すのにも気合がいるほど精神的にもハードなものがありますが、そんな激しい稽古でも若い間はやってる間に身体が慣れてきます。

 ところが中高年を過ぎる頃からは、気持ちは「やろう!」と前向きになっていても体の方がついてこなくなります。
 目に見えてケガの回復が遅くなり、疲労が簡単に取れなくなってきます。

 問題はそうなった時に、以前ほどフィジカル面で強さを発揮できなくなった事を、自分がどのように捉えるかです。

 肉体の衰えは、誰もが皆そうなっていくものです。もちろん、その低下をカバーする努力を続ける事は大切ですが、肉体面にだけこだわっていては表面上の強さのみに意識を引っ張られていることになります。
 究極的に大切な事は、意識を精神的な高みに持っていけるか、ということです。

 若いときほど毎日ハードなトレーニングができなくても、日々、空手のことを考え、常に頭のどこかに常在戦場の意識を持ち続け、目に見たもの耳にした事を空手に結び付けて考えるようにすれば、「朝鍛夕錬」となるのではないでしょうか。

 当然ながら武道ですから、頭の中の空想だけで強くなった「つもり」になるのはいけませんが、肉体的鍛錬精神的稽古を並行して行なう。それこそが武道本来の姿ではないでしょうか。師はそういう意識を常に持ち続けよ、とこの言葉を下さったのではないかと私は捉えています。
 「日々是精進」です。


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