やれるだけの事


夢を託されるのに十分な存在か?

 世間はオリンピックムード一色といった感じですが、そのオリンピックに出場できず引退した選手がいます。
 400m障害で世界選手権では2度の銅メダル、五輪には前回の北京まで3大会連続で出場しているトップアスリート為末 大 選手です。

 日本選手権の予選で敗退し、引退を決意したとのことで、その後の気持ちを綴ったものが新聞に掲載されていました。
その中で彼は「やれるだけの事はやった」と言っています。確かにその通りでしょう。体格に劣る日本人が、陸上競技で世界を相手に20年以上戦い続けるためには、それこそ思いつく限りのことを限界までやり尽くしたに違いありません。

 その彼が次のように言っています。
 「誰もが努力すれば必ず頂点に近づけるわけではない。」と。
 頑張ればできないことはない、などと言えるのは、本当に限界まで頑張ったことのない人です。自分が限界まで頑張ると、どんなに努力してももうこれ以上は無理だという所が見えてくるのです。努力してできるようになったとしたら、それだけの素質があったというだけのことです。
 そして、素質のある奴が死ぬほど努力しているのがオリンピックのような本当のトップの世界です。素質のない者がどんなに努力しても素質のある者には勝てません。
もちろん素質のある者が努力しているのには敵いませんから、その意味で努力は非常に大切なものです。
 けれど、努力ですべてが何とかなるというのは幻想です。

 ライバルとお互いに人生を掛けて必死で競っていても、勝敗は必ず付き、敗者は去っていく。そのたびに敗者からの思いを受け取り、彼らの夢を託されてきたのだ、と為末選手は言っています。

 もちろん自分も限界まで練習してきたには違いないが、もしかしたら負けた相手の方がもっとたくさん練習してきたのかもしれない。
 そして自分も頑張ったからこそ、その努力の重みがわかるのです。だから自分が勝ったからには負けた相手の分まで、その夢を背負っていかなければならないと思えるのです。

 為末選手は自分がその夢を託されるのに十分な存在だったのかと自問し、自信がないと言っていますが、それで別に構わないのです。それは夢を託した側が考えることなのですから。けれど「やれるだけの事はやった」と言える為末選手に対しては、誰もが納得して自分の夢を託せたのではないでしょうか。

 武道の中にも「競技」の部分が存在します。競技の部分に取り組んでいる時には試合に勝つことを目指して努力すべきです。試合に出ようという人は当然それなりに頑張っているとは思います。けれど「やれるだけの事はやった」と胸を張って言える人がどれくらいいるでしょうか。
 普通の人は仕事や学業など普段の生活でやらなければならないことがたくさんあり、競技のことだけに集中して取り組める環境にある人は少ないと思います。それでも、その状況の中で限界まで頑張ったと言えるでしょうか。

 ほとんどの人は「忙しい」「時間が無い」「今日は疲れてしまった」などという、自分に対する言い訳ができる状態にあり、その言い訳に自分で納得してしまいます。

 言い訳せずに細かく見ていけば、できることはまだまだたくさんあるはずです。
 気力も体力もまだ余裕があるうちに一日が終わり、眠る時に「今日のテレビは・・・」などと思い浮かべてるようなら、もっともっと稽古できます
 そして試合当日にはすべてのことをやり尽くした状態で臨んでいるべきでしょう。

 それができていないから、試合で勝った時に不謹慎なガッツポーズを取ったりするのです。
 全力を尽くした充実感から自然と出るアクションはあるかもしれません。しかし、試合に負けた相手も自分と同じ辛い稽古を乗り越えてきたのだという意識があれば、負けた相手の前でこれ見よがしのガッツポーズなどの失礼な態度は取れないはずです。

 自分は「あいつに負けたのならしょうがない」と思ってもらえる選手なのかどうか、もう一度自問して下さい。

 その思いを受け取ることのできる選手だけが皆の夢の代行者として、更に先のステージに進むことができるのです。自分一人だけの夢だったらとてもそこまで頑張ることできなかったと為末選手も言っています。

 他人の気持ちに想いを馳せることのできる人になってください。それができるようになって初めて、その先にあるものが見えてくるのだと思います。


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