それでいいのか
型の改変と昇段について
オリンピックの影響
空手の段位はランキングの順位ではなく、資格の部類に入るものですから、昇級、昇段は単に組手で強ければ取得できるものではありません。
剣道などでも次の昇段審査を受けられるまでの年数が決められていて、高段者になるほどその期間は長くなります。
技術的に勝れていることはもちろん必要ですが、技術が勝れているだけや強いだけでは昇段できるものではないのです。
段位は「資格」であり、「資」となるそれ相応の技術レベルは勿論必要とされますが、その中身には人間性など技術以外の部分で「格」が必要とされるからです。
空手においても本来同様であるべきだと思うのですが、「強さ」だけで昇段させているところや、「名誉段位」と混同して授与されているような方もいます。
TVのCMやyoutubeなどで、まだ年端のいかない子供が、裂帛の気合で素晴らしく切れのある型を披露していますが、だからといってそんな子供が三段や四段になるなんて事はありえません。
スポーツとして競技される型においては力強さや技の切れだけでなく、「いかに観せるか」に重きを置いた演武がなされています。
型の本来の目的は型に含まれる技の用法を学び、実践において活用できるように稽古するための教科書のようなものです。
どこで力を入れ、どのように技を繰り出すのか、どのタイミングで技を繋ぎ、どうやって極めるのかを一人で稽古するためのものです。
その過程の中で技に切れが生まれ、力の緩急によって動作にメリハリが付き、観る者を感動させる事ができるようになるのです。型を行なうのは空手の稽古としても重要な役割を果たしますが、見栄えの為だけの型は動作に意味がなく、ただ大袈裟に見せたりするものが少なくありません。
極端に言えば、各流派の大家や始祖と呼ばれる方々(東恩納寛量、船越義珍、糸州安恒、摩文仁賢和、等々)が現代の型の試合に出れば、全員一回戦負けでしょう。
つまり、それほど今の「素晴らしい型」は武道としては意味がないということです。
もちろん、スポーツとして行なう上で、「型」競技はあってもいいとは思いますが、技として意味のない動きに動作を改変して、あたかもそれが本来の型であるかのような顔をして演武するのは止めてほしいですね。
まぁ、全くの自作の型を古来秘伝のものだと自称して披露するような人が組織のエライさんとして指導してたりするんですから、大会用に型を改変するのが横行しても正すのは難しいと思います。
大きな大会になると「型試合」の決勝までは7種類の違う型を打たなければならないそうです。「ナイファンチ」しかやらなかったという本部朝基先生が今の空手界を見たら何と言うでしょうね。
多くの型を知り、それを研究して稽古するのも大切な事ですが、多くの型を見映え好く行なうだけではスポーツに過ぎず、武道とは言えないと思います。
同じ理由で、スポーツとしての型をいくら多くこなしたとしても、その人が高段者として黒帯を締めているのには違和感を覚えます。
たとえ、スポーツとしてやっていたとしても、昔は型も組手もできる選手が多かったのですが、最近は「型だけ」「組手だけ」という人ばかりです。そのどちらもがスポーツとしての競技ルールのみに縛られた稽古に明け暮れていて、そういった選手が競技引退後に指導者となり、高段位を認可されているのには疑問を抱かざるを得ません。
型と組手を共に稽古し、理解しなければ武道として不十分だと思います。
オリンピックに「KARATE」が入ったことで、武道としての空手が衰退していかないかが危惧されます。