東京五輪


オリンピックと空手道


型の競技化ついて
 会場の建設や不透明な支出など色々問題が取り沙汰される2020年の東京オリンピックですが、開催国枠として採用される競技に空手が決定しています。
 初めは組手競技のみか、と予想されていましたが、型の部も採用されるなど、かなり日本側の意向が反映された形となったようです。
 型の部は体操競技などと違って減点、加点の概略がハッキリしないので、どのようにするかと思っていたところ、2人同時に型をする対戦形式で行なうようです。

 色々な方策が考えられ、各国から同意を得られる形にはなるのでしょうが、技術レベルが上がるほど、型は試合には向かないと思います。単に順序正しく套路を踏み、使われる技をきれいに行なうようになるだけでは「型」の意味がありません。

 本来、型は技のコンビネーションを稽古するものであり、仮想敵との対戦を頭に置いて1人で稽古を行なう方法として考案されたものです。

 良い型の演武は美しく、優雅であり、見る者を惹きつけるものですが、その逆は決して真ではなく、たとえどんなに見映えがよく、美しい型であっても、武道的に意味がない型空手として意味がありません

 外国人が「型」に賞賛を送るのは、そこに東洋的精神性の表れを感じるからであり、そのベースには武道的要素があるからです。

 ところが型の競技化が進んだ結果、技の意味もわからず、ただ単に見映え良くキレイに行う者が増え、本来、深い技の理解があってこそ可能であった、上級者のみに伝授されていた型を、youtubeの動画で順序だけを覚えて試合で行なう小学生までいる始末です。

 元々、空手は立ち方三年と言われるくらい基礎を養成するのが重要な武道であったものが、長い下積みの訓練や拳足鍛錬もなく、キレイに型を演じるだけで空手の上級者扱いされ、更に、それでオリンピックの金メダリストにでもなれば、その道の達人扱いされる事になるのには違和感を覚えざるを得ません。

 空手の普及のために型を競技として行なうのに反対するわけではありませんが、型はあくまでも「演として一般に公開されるものであって、「演じる」だけで武術性を失った型には全く意味がないと思います。

 オリンピックを統括するIOCの登録団体である全日本空手道連盟にもそういった心配をする人がいるようで、少し前から型の試合に分解組手を取り入れるようにしたみたいですが、それがまた試合のためのものとなってしまい、アクロバチックな殺陣をやっているみたいになっています。
 試合で勝敗をつけるとした以上、それは仕方のないものでしょう。

 だから「型」は試合をするべきではないのです。

 日本の武道としての空手が世界に受け入れられるのには、オリンピックへの参加を第一にするのではなく、空手本来が持つ武道的な精神性をアピールしていくべきだと私は思います。


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